60代ライターの散歩道【信長公の首塚/富士宮市・西山本門寺】

人影のない首塚入口

お出かけレポート

戦国時代の天下人・織田信長公が命を落とした本能寺の変は、日本の歴史上、最大級のミステリーのひとつだ。自害した信長公の首のゆくえは、いまもって謎めいているが、富士宮市西山の西山本門寺に伝説の首塚があることから、冬空の美しい2月上旬に同地を訪ねた。

霊峰富士、富士宮市(大宮)とゆかりがあった信長公

富士宮市芝川地区から西山を目指したが、細い道の山里への移動のため、道中は車のナビを利用した。芝川スポーツ広場前で手打ちそば処・黒門をたまたま見つけ、天ざるで昼食をとった。素朴な味を楽しみに来る客が多いようだ。

目的地の西山本門寺は、広々とした境内のある古刹(こさつ)だった。厳冬の静寂に包まれた境内に足を踏み入れ、ああ、この寺に首塚があるのかと思うと、荘厳な本堂や葉を落とした大銀杏が、謎に包まれたエピソードの信憑性を高めている気分にさせた。

私は歴史に疎いが、信長という戦国の世のヒーローが、家臣の謀反により京都で果て、その首が遠く離れた西山になぜ葬られたと伝わるのか、以前から不思議でならなかった。有名な本能寺の変は、家臣の明智光秀が1582年6月に主君に反逆した事件だ。早朝、信長公は寝込みを襲撃され、光秀軍に包囲されたと知ると、寺に火を放つことを命じ、密室で自害して果てたという。信長公の首の奪取が大陰謀のゴールであり、光秀は丹念に亡骸を探したらしい。ところが、どんなに捜索しても火事場からは見つからず、信長はまだ生きているのではないかと動揺したとも伝えられている。

格式を感じる本堂

石柱が首塚を知らせる

 

さて、首塚は本堂裏にあった。落ち葉が散り落ちた池の上方に築山があり、そこに柊(ひいらぎ)が1本たたずんでいた。首塚の目印に当時、植えたのか、それとも元からその場にあったのか、私にはわからないが、毛糸の帽子をとって丸太支柱で養生された巨大な柊の方向に合掌した。古木の推定樹齢は500年、幹回りは約3.5メートルと表示されていた。謀反の起こった時代と樹齢はおおよそ合致するともいわれる。

ところで、信長公の首がなぜ西山本門寺にあるのか。詳しい謎解きは富士宮市のホームページなどに(リンク参照)。ただ、かつての大宮、現在の富士宮市は、信長公にとって縁のある晴れがましい土地であったようだ。信長公は甲州征伐の後、富士宮へ凱旋した。人穴や白糸の滝をめぐり、浅間大社で石に腰掛け富士山を仰ぎ見た記録が残る。公が腰掛けた石(富士見石)は同市の中央図書館前に現存している。凱旋した信長公を接待したのは、なんと徳川家康だったそうだ。

それにしても…と境内を出て私は首をひねった。太閤記を読むと、豊臣秀吉が信長公を年若から信奉していたことがわかる。その秀吉がよくも黙って首塚を放っておいたものだ。その気になれば秀吉の息がかかる寺へ改めて埋葬できたはずだ。それなのになぜ?そこにはやはり霊峰富士が介在していたのではないか。富士見は「不死身」を連想させる。かつて信長公は富士山を仰いだおり、仮に事が起こった場合は、霊峰に近い場所に葬るよう側近に指示していたのでは…?

勝手な推測をしながらあたりを眺めれば、春には桜、秋には紅葉が美しい山里は、すみきった冬空の下、歴史ロマンの里と呼べそうにのどかだった。昨年11月には西山本門寺の境内で供養祭のほか、火縄銃演武などを披露した『信長公黄葉まつり』が開かれたそうだ。今年も同イベントがあるなら、季節を変え、訪ねたいと思った。

のどかな山里風景

偶然見つけたそば処

(ライター/佐野 一好)

富士宮市公式ウェブサイトより『信長公の首塚と足跡』
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/kankou/llti2b00000018hl.html

信長公の首塚(西山本門寺)
富士宮市西山671

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