Vol. 195|津軽三味線奏者 牧野 太紀
四つ子の魂
コロナ禍で一生に一度の成人式が中止となり、キャンパスライフの大半を在宅で過ごした世代は、今何を思うのだろう。まして、集う観客を前に自らの技芸を披露するエンターテインメントの世界にいる若者にとっての辛苦は、想像するに余りある。ただ、彼らにとってのこの3年間は「失われた時間」だったわけではない。
富士市出身の津軽三味線奏者として幼少期から頭角を現し、華々しい受賞歴を持つ牧野太紀(まきのたいき)さんは、この春に大学生活を終え、新しいステージへ進もうとしている。置かれた環境の中でできることを見定め、努力を怠らず、自らをさらなる高みへと押し上げていく牧野さん。広い視野を持ちながらも決してブレることのないその姿勢はさながら、津軽三味線を象徴する力強いバチさばきにも通じるように感じられた。
津軽三味線奏者のほとんどが青森県の人、というわけではないのですね。
たしかに青森県の津軽地方で成立した三味線音楽の一種ですが、今では広く普及していて、全国大会も各地で開催されています。成績上位者はむしろ青森県外の人が大半ですね。
ひと口に三味線といっても、演奏スタイルによって長唄や地歌など、津軽三味線以外にもいくつかの種類があります。形としてはおもに棹の太さで分類されますが、津軽三味線は太棹で大型、3本の弦を弾くというよりもバチで叩くような演奏法が特徴で、迫力のある音量と繊細な表現を併せ持つ点が魅力です。
津軽三味線が全国的に知られるようになったのは昭和の民謡ブームからで、ラジオや白黒テレビが普及する中で各地の民謡が流れるようになったことが後押しになったそうです。その後は民謡だけでなく、歌謡曲にも浸透しました。演歌の前奏などで目にすることもあると思いますし、2000年頃に『吉田兄弟』さんという二人組の津軽三味線奏者が人気を博したことで知っている方も多いかもしれませんね。民謡をベースにしながらも、ジャズやポップスと融合した楽曲もどんどん生み出されていて、その柔軟性は若い世代にも受け入れやすいと思います。
また津軽三味線といえば、『津軽じょんがら節』ですよね。津軽民謡の代表的な曲で、比較的弾きやすく、他の楽器との共演に合わせやすいこともあって、もっとも知られた存在です。でもじつは、じょんがら節は一つの曲ではないんですよ。ある程度決まった流れやフレーズはありますが、弾き手がその場で、かなり自由にアレンジしています。大会の課題曲がじょんがら節なのに、出場者が弾くのはみんな少しずつ違う曲、みたいな(笑)。
これは津軽三味線が即興を重んじる音楽で、独奏というスタイルが多いことにも由来します。演奏会での独奏は基本的に即興ですし、「唄付け」といって歌手に合わせて伴奏を行なう場合でも、前奏の時間配分に合わせたり、歌手のキーや喉の調子を見ながらその場で調節したり。知識と経験がないとしっかり演奏できないという難しさはありますが、この自由さこそが津軽三味線の奥行きになっていると思います。
牧野さんは4歳で津軽三味線を始めたそうですが、そのきっかけは?
趣味で三味線をやっていた祖父と母の影響です。自宅には三味線のCD音源がたくさんありました。僕はそれをかけてもらうのが好きで、物心がつく頃にはいつも聴いていた記憶があります。
4歳の時、発表会のステージ上で母が演奏する津軽三味線の生音を初めて聴いて、その力強さに衝撃を受けたんです。他にもピアノや水泳などの習いごとはやっていましたが、津軽三味線だけは自分から「やりたい!」とせがんだことをよく覚えています。ただ当時は子ども用の三味線がなくて、あまりの大きさと重さに最初のうちは音を出すこともできませんでしたが、地元の先生に教わりながら少しずつ習得していきました。9歳の時に初めて全国大会のジュニアの部に挑戦したところ、出場者20人のうち下から2番目の成績でした。これが本当に悔しくて。
そんな中、現在の師匠でもある木乃下真市(きのしたしんいち)さんのコンサート兼ワークショップに参加したことがきっかけで、道が開けました。木乃下さんは津軽三味線界のトップランナーで、当時から「百年に一度の奏者」と評されていた方です。東京で開催された2日間のイベントで、初日のコンサートを観た時点であまりの素晴らしさに心を奪われました。津軽三味線は力強さが命。他のプロの演奏もたくさん聴いてきましたが、木乃下さんの演奏からは桁違いのパワーを感じたんです。その日はホテルに帰ってからも興奮が収まらず、翌日のワークショップで指導してもらえることを考えると、嬉しくて夜も眠れませんでした。
プロの奏者を含む中級者以上の大人たちに混じって参加したワークショップでは少しだけ個別指導の時間があって、バチの握り方や指の間隔、叩く角度など、木乃下さんにいただいたアドバイスを実践しただけで、自分でも驚くほど明らかに音が変わったんです。その感動と、もっと学びたいという思いが抑えきれず、ワークショップ終了後の木乃下さんに駆け寄って「弟子にしてください!」と直談判しました。
当時の木乃下さんは演奏ひと筋で、弟子を取らないことで有名な方でしたが、まずは両親に相談するようにと諭された上で、僕の思いを真剣に受け止めてくださいました。その後両親とも話し合った結果、僕の気持ちは揺らぐことありませんでしたが、後日になって木乃下さんから「じゃあ、やってみましょうか」というメールが届いた時は本当に嬉しかったです。
それから月に2回、東京に通うようになって、習い始めた半年後に全国大会で入賞、その後は準優勝が2回続いて、小学生最後の大会では15歳以下の部で優勝することができました。
木乃下さんには今も指導していただいています。あの日、ワークショップの参加者の中で三味線が一番下手だったはずの僕をどうして弟子にしてくださったのか、今でもはっきりとは聞かせてもらっていませんが、10歳の少年の無謀な“突撃”には相当驚いたみたいです(笑)。
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