Vol. 174|ヨガ講師 タルン・シェクハル・ジャ

タルン・シェクハル・ジャさん

日本の心とインドの心。

この一年、新型コロナウイルスの蔓延により図らずも自分と向き合う時間が増え、人生の意義を見直したという人も多いかもしれない。生き方そのものに目を向けるチャンスを得た今、よりよく生きるために“ヨガ”のものの見方・考え方に触れてみるのはいかがだろうか。

日本でヨガといえば、フィットネスや宗教の一種、はたまたサーカスのような超人的なポーズを取ることだと思われている節があるが、富士市在住のヨガ講師、タルンさんにお話を伺うと、古来からの知恵と哲学に裏打ちされたヨガ本来の姿が見えてきた。

時に冗談を織り交ぜながらハヌマーンヨガの魅力を紹介するタルンさんのYouTubeチャンネルは、その名も『Omoshiroi Gaijin(面白い外人)』。そんなユニークでおふざけ感のあるネーミングとは裏腹に、インタビューは生き方そのものについて深く考える時間となった。

ヨガとタルンさんの切っても切れない数奇な運命

10年前に来日し、静岡はもちろん関東圏を中心に多くの生徒を抱えるインド人ヨガ講師、タルンさん。雑誌やテレビ出演もこなし、コロナ禍以降はオンラインレッスンで海外の生徒も増えるなど活躍中だが、意外にも仕事としてのヨガ講師を意識したことはなかったという。

「インドに生まれ、子どもの頃からヨガは生活の中にありました。でも、小さな頃に夢中になったのは空手で、日本の時代劇やアクション映画に憧れて近所の道場に通い詰めていました。そのうち今度はムエタイにのめり込んで……という風に、特にヨガ自体に向き合ってきたわけではないんです。」

空手では、インド国内でチャンピオンになり、ムエタイも突き詰めて鍛えた末に体重別で金メダルを獲るほどまでになった。その後、旅行で日本を訪れた際、富士山の見える富士市を気に入り、この地で暮らすことを決める。しかし、10代から続けているモデルの仕事などをこなしながら過ごしていたある日、自転車で事故に遭ってしまう。

「僕に向かって車が突っ込んできたんです。とっさに両脚を高く上げて避けたら、自転車にはぶつかりましたがなんとか転ばず、ケガもしませんでした。」

車をよけきったあのバランス感覚は、絶対にヨガのおかげだと確信したタルンさん。さらに思い返してみると、ヨガに救われたのはこの時だけではなかったと気づく。

「ムエタイをやっていた頃、事故で両手首を骨折したことがあったんです。両手にギプスの生活も辛かったし、もうムエタイも続けられないかも、と気持ちが沈みました。でも幼い頃から染みついていたヨガを実践していったことで、精神的にも肉体的にも回復していったんです。」

ヨガの持つ力を再認識したことで、その良さ、奥深さを日本の多くの人に知ってもらい、役立ててもらいたいと、ヨガを教えるに至る。

片足のポーズ

誰にでもフィットするのがヨガ

レッスンを始めたものの、生徒の中には短期間でライセンスを取ることだけを目的にする人や、はやりに乗って始めたものの、すぐほかに興味が移って辞める人がいるなど、もどかしさを感じることもあったという。欧米を経由して日本へ入ってきたヨガは、フィットネスとしての印象が強い。その誤解を解き、ヨガの哲学も含めて誰もが安全に楽しめる、人生に無理なく取り入れられるヨガを伝えたいとタルンさんは話す。

「いつも最初に生徒にこんな例え話をします。半分水が入っているコップを見せて、『水が半分空っぽ』と捉えるか『半分も残っている』と受け止めるか。あるものに目を向け、事実を肯定的に受け止める物の見方というのも、ひとつのヨガなんです。」

エクササイズのように、その場で身体を動かして終わりではなく、ヨガの考え方や見方を取り込んで日々の生活に活かしていくことこそ、タルンさんの伝えたいヨガだ。

「体が硬いからヨガは無理でしょうって聞いてくる人がいますが、そんなことはありません。ポーズが取れるようにするのが目的ではなく、ヨガの方法を使いながらじっくりメンタルバランスを整えたり、身体を強くしていく、その道のりこそが大事なんです。ヨガは誰でもできるもの。それぞれに合うヨガがあると知ってもらいたいですね。」

ある時、タルンさんの教室に78歳の女性が訪ねてきた。別のヨガ教室では年齢を理由に門前払いだったそうだが、タルンさんのヨガレッスンに通ううち、みるみる前向きになっていったのだ。

「その人、『年だからもう自転車に乗るのはやめる』って毎回言っていたのに、どんどんパワーアップしてついに新しい自転車を買っちゃいました(笑)。」

呼吸を整えることから始めよう

「ヨガをやる時に、いちばん大切なのは呼吸です。緊張している時や怒っている時は、浅く速くなってしまうもの。反対に、すごくリラックスしている時はゆったりと深い呼吸をしていますよね。呼吸と感情は密接に関係しているから、自分でコントロールできる呼吸を意識することで、感情も徐々にコントロールできるようになります。呼吸を中心に、ヨガには大きく8つのステップがあって、精神に作用するものと身体を鍛える両輪で成り立っているんですよ。」

身体面なら例えば、まず足首をしなやかに強くしていくと股関節のゆがみがなくなる。そうすれば内臓の位置が整って腹筋が正しく動くので便秘も解消されていく……。ヨガと聞いて多くの日本人がイメージする、あの人間離れしたポーズは、このようにひとつずつの積み重ねの結果として現れるもの。また、深い呼吸や瞑想で自律神経の調子を良くし、心のバランスを整えるヨガは、ストレスの多い日本社会にはうってつけだという。コロナ禍でのお勧めは1分瞑想。背筋を伸ばして目を閉じ、呼吸に集中するといいそうだ。

「身体の声を聴き、自分をいたわることで、周りにも幸せや優しさを分けてあげられます。」

日本人は働くために生きている?

日本人が勤勉なのは世界の共通認識だが、来日後に会社員として働いた経験もあるタルンさんは、当時は大変だったと振り返る。

「会議も多かったり、残業もあたり前……。僕も会議で寝てしまったことがたびたびあります。ある友人は、インドにいた時に3人分働くと表彰されたけど、日本に来たら『みんな6人分働いてる!』と驚いていました。」

ワークライフバランスという言葉が叫ばれて久しいが、有給休暇が取りづらい企業もいまだに多く、ましてや男性の育児休暇など取ろうと考える人はほとんどいないのが現状だ。勤勉さは美徳だが、それが行き過ぎると、生きるために働くのか働くために生きるのか分からなくなってしまうかもしれない。

「ときどき、自分の仕事が大嫌いなんですと言ってくる人がいますが、僕はそういう人には『辞めたほうがいいよ』ってアドバイスします。嫌いなことをずっと続けるほどストレスが溜まることはありませんから。仕事を辞められないならせめて好きになってほしい。隣の席の人と仲良くなるとか、デスクの上を自分の好きな仕様に変えるとか、5分早く出社して瞑想してみるとか。なかなか変えられない現状でも、ヨガのものの見方や呼吸などを取り入れることで、ストレス量は少し下がると思います。」

いくら嫌いだからって、そんなに簡単に仕事は辞められないよという声が聞こえてきそうだが、ただ我慢を重ねることに反対するタルンさんには、明確な信念がある。

“今”がベストなら人生は最良になる

仕事を辞める、辞めないはひとつの例としても、少し立ち止まって考えてみてほしい。幸せな人生を送るために必要なこととは何か。それは、幸せな“今”を積み重ねることにほかならない。

「平日はひたすら我慢して、土日にだけ好きなことをしますか?本当にそれでいいですか?人生は週末だけではありません、毎日のことですよ。」

タルンさんは「ヨガとは“今”」と表現する。今の状態を肯定すること、肯定できる今を送ることが、前向きな人生を送ることにつながっていく。

「いくら大金持ちになって大金を積んでも、時間だけは取り戻せないでしょう。嫌な気持ちで過ごした過去をやり直すことは誰にもできません。人生は有限だからこそ、与えられた時間は最善のものにしたいですよね。」

もうひとつ、幸せな今を手に入れるために大切なのは“比べないこと”だという。

「雨が降ったら天気が悪いなと思ったり、冬は寒くて嫌だ、夏は暑すぎると感じたり。私たちはつい、そんな風に不満に思うけれど、その良しあしは頭の中で勝手に作り出した基準と比べているからです。そういう意味では、五感は信用できません(笑)。僕にとっては吹雪だっていい天気ですよ。」

ありのままの今を受け入れる、心地良い今を作り出す。ヨガは幸せに生きるための手助けをしてくれる存在。そういうことを伝えたくて、みんなにハッピーになってほしくて、ヨガの先生をしているのだと力を込める。

花を愛でるタルン

幸せな人生は、
幸せな瞬間の積み重ね

日本を元気にして菅総理の笑顔が見たい

テレビ出演やYouTubeの投稿で、多くの人にヨガの良さを知ってもらおうと励むタルンさん。目標は国内のヨガ人口50%だ。

「コロナの終息とヨガ効果で日本全体のストレスが下がれば、いつも難しい疲れた顔をしている菅総理にも笑顔が出るかも……。菅さんの笑顔を見ることが今年の大きな目標です(笑)。あとは、コロナの影響もあって何度か計画倒れになったヨガツアーを実現させて、生徒を連れてヨガをしながらインド各地を旅行したいです。近年の報道でインドは女性には危険な国というイメージがついてしまったので、それを払拭したいなと思ってます。それから、コロナが落ち着いたら駅の近くでヨガスタジオも再開して、直接教えたいです。みんな、『もうオンラインじゃ足りない!』って言ってますからね。」

日本の時代劇やアクション映画に憧れ、日本の映画文化をインドの映画界に持ち帰って広めたいと願ったひとりのインド人男性は今、インドの魂を日本人の幸せのために、惜しみなく伝えようとしている。

Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text/Chie Kobayashi
Photography/Kohei Handa

タルンプロフィール写真

タルン・シェクハル・ジャ

ヨガ講師/モデル
インド・デリー出身 富士市在住
(取材当時)

Tarun Shekhar Jha / インドの首都デリーで、ヒンドゥー教寺院の僧侶の家系に生まれる。幼い頃から日本の武道や映画に憧れ、2011年に来日。当時はアクション俳優の事務所に所属し、殺陣などの技術を磨いた。ファッションモデルの顔も持ち、『東京コレクション』での出演経験も。旅行で訪れた富士山を気に入り、富士市への移住を決意。自身の生活の一部であったヨガの価値を再認識し、その思考や実践法を広める活動を開始。現在はプライベートレッスンを中心に、富士市内のフィットネスクラブ『J-MAX』でもヨガのインストラクターを務めている。モノづくりが趣味で、これまでに富士市の国際交流イベントやフリーマーケットにも参加し、自ら作ったジュエリーやせっけん、ヨガのウエアの販売も行なっている。

タルンさんの情報発信チャンネル

YouTube
Omoshiroi Gaijin

Instagram

@tarunshekharjha

取材を終えて 編集長の感想

おそらくヒッピー文化あたりが端緒だと思いますが、昔はよく「インドに行けば人生観が変わる」と言いました。日本の秩序正しい社会とは対極にあるのがインドだというイメージは今でも根強いと思います。それはつまり、日本とインドの間の境界線は覚悟を決めて越えなければならなくて、一度「あちら側」を知ったらもう戻ってこられないという見方です。

本当にそうでしょうか。なにも日本式かインド式かの二者択一である必要はありません。お互いのよいところをちょっとずつ取り入れて混ぜ合わせたってバチは当たらないでしょう。ただしそれは、表面的な形式だけをファッションとしてなぞるのとは違います。大切なのはその根底にある哲学やマインドの部分。そしてヨガのマインドはわりと、日本人にとっての「ずっと欠けていたピース」をちょうどよく持っているような気がします。

「ヨガは心を柔らかくする」とタルンさんは言います。「宗教と違ってヨガは押し付けない」とも言われます。ひとつの人生観を否定して別の人生観へ乗り換えるのではなく、心の深層のいちばん柔らかい部分で受け止めて広げていけば、人の内面はどんどん充実してくるということですね、タルン先生。

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