Vol. 204|クリエイター集団EN代表 長橋秀樹
関係性を宿すアート
我々は幼い頃から日常的に有形無形のアートに触れ、味わいながら暮らしている。ところが「アートとは何か?」と問われると、明確な答えに窮してしまう人が多いのではないだろうか。感覚的な心地良さも、違和感も、アートという便利な言葉の前でなんとなく消費されていく。
今回のインタビューではこの曖昧かつ奥深い概念について、ずいぶん理解が進んだ気がした。長橋秀樹さんは絵画作品を軸とした美術表現を日々研究し、大学教授として教壇に立ちながら、沼津を拠点に活動するクリエイター集団『EN』(エン)の代表を務めている。
多角的な視点でアートの本質や可能性を探求する長橋さんが多く用いるキーワードは、「関係性」。アートの現場で長年培った経験を糧に、自己と向き合う一人語り(モノローグ)から、他者との対話(ダイアローグ)へ。長橋さんの世界観はより楽しく、優しい方向へと拡張し続けている。
さまざまな形でアートと関わる長橋さんですが、まずは『EN』の活動について教えてください。
ENは2015年に発足した任意団体で、画家、造形作家、写真家、デザイナー、ダンサーなど、幅広い分野のクリエイターが集い、交流することで、表現の可能性を模索しています。沼津のアーケード名店街にあったアートギャラリー『E.SPACE』(イー・スペース)が閉館となったのをきっかけに、すでに企画されていた展示を実現すべく、E.SPACEの運営にも携わっていた有志3名で始めた活動です。
趣旨に賛同してくれたクリエイターや企業の協力を得ながら、これまでに商店街の空き店舗を活用した作品展示やワークショップの開催、子どもたちの創造性を育むことを目的とした幼稚園への支援活動など、アートを通じた人と人、人と場所をつなぐ取り組みを行なっています。
2018年からは元印刷会社の工場建屋を改装したギャラリー『DHARMA(ダルマ)沼津』を拠点に、多くの作品展や地域と連携したアートイベントを開催してきました。残念ながら今年11月に開催するグループ展を最後に、DHARMA沼津は閉館となってしまいますが、人が中心であるENの活動は形を変えながらこれからも続けていきます。
現役の大学教授として教壇にも立たれていますね。
静岡市の常葉大学教育学部で初等教育課程の学生に美術科教育に関する講義をしています。
とはいえ、大学は教育機関である以前に研究機関ですから、あくまでも自分の専門領域である油彩を中心とした絵画研究を第一に考え、そこから得た生の知見を学生と共有することを重視しています。机上の空論になるような授業ではなく、最前線の現場で起きていることを若い学生たちに少しでも感じ取ってもらいたいんです。自分のアトリエで作品制作に没頭する中で気づいたことも、ENの活動を通じて他分野のクリエイターから受け取った刺激も、僕にとってはすべてが研究対象であり、次の世代に伝えていく大切な経験だと考えています。
幼児教育におけるアートの役割についても研究されているそうですね。
幼児とアートの関わりについては、発達段階に合わせた配慮が必要です。幼児向けのイベントなどで「◯◯をつくろう!」といったプログラムをよく見かけますが、幼児教育において大切なのは、作ることではなく遊び込むことなんです。大人の感覚では、どうしても何か一つの作品を完成させることを目標にしてしまいがちです。決められた手順でみんなと同じものを作るという設定は、高齢者などが手先や脳の機能を維持する目的であれば有効ですが、幼児教育においてはむしろ害の方が大きいと考えます。幼児期に必要なのは、自由な発想で素材や空間を楽しむ行為で、例えば長いテープを自然の風でたなびかせてみるとか、大きなビニール袋を太陽光に透かしてみるとか。安易なゴールや正解を設定せず、歌いながら描いたり、喋りながら踊ったり、ただ遊び込むことに重点を置きます。
これはスポーツでも同じで、例えばサッカーだと、幼児に最初からルールとポジションを教えてもうまくいきませんよね。まずはボールに触れて、自由に遊んで、どう蹴ったらどう弾むかといった感覚を掴むことから始めます。遊び込んで、その素材のことを深く柔軟に理解することで、それを使って何かを作るイメージが脳内でできやすくなります。またこの能力は汎用性が高いので、その先の初等教育の学習にもスムーズに移行していけるんです。
長橋さんご自身は幼い頃からアートを学んできたのですか?
じつは大学受験を意識した高校3年生まで、芸術とは無縁の生活でした。絵を描くことは好きでしたが、誰かに見せるわけでもなく、学校の先生の似顔絵を描いたり、図鑑に載っている写真を遊びで模写する程度でした。中学では野球部、高校では2年生の秋までサッカー部で、美術部に所属したことすらありません。
当初はサッカーで大学に進みたいと考えましたが、部活の合宿で国士舘大学サッカー部の練習を見学した際に衝撃を受けました。あまりにもハードで、その中に自分が部員として存在しているイメージがまったく湧かなかったんです。サッカー部を退部した後の空白の時間の中で、描くことの魅力がじわっと込み上げてきて、高校の美術の先生が常駐している準備室に無意識的に足を向けました。そこで先生に美術系大学の受験について相談してみたところ、「だったら予備校に行かないと無理だよ。沼津市内にあるから行ってみたら?」と言われて、紹介された沼津美術研究所を訪ねてみたことで、その後の人生が大きく変わりました。
沼津美術研究所を主宰する青木一香(いっこう)先生と鈴木康雄先生に師事して、美術の奥深さが理解できました。美術大学に入るという目標に対して、自分に足りないもの、できないことが分かってきて、なぜそれができないのか、どうすればできるようになるのかが次々に見えてきました。課題や解決法を論理的に分解して、技術を向上させる作業が性に合っていたんでしょうね。高校3年生の夏から絵画の道に入って、2年間の浪人を経て東京藝術大学に合格するまで、描くことに膨大な時間を投入しました。
誤解を恐れずに言えば、美術大学の受験はゲームのようなところがあって、一定の表現範囲の中で、いかに技量とセンスを発揮できるかが問われます。ただ自由に表現すればいいわけではなく、受験独自のテクニックもあります。だからこそ美術予備校の存在価値があるわけですが、いずれにせよ美術大学の試験はアートの本質と乖離している部分があるのは事実ですね。
一方で僕の場合、難関入試を突破していざ東京藝大に入ると、今度は枠にはまった価値観を徹底的に覆すことを大学から求められました。正確に描写できる技術があることは大前提で、「絵画の本質とは何か」「描くとはどういうことなのか」といった抽象的な概念についてひたすら考えるわけです。しかもそれを言葉ではなく、実体のある作品として表現しないといけません。自分の感覚や思考をとことん突き詰めて、言語化しようとしても言葉にならずにこぼれ落ちていくものこそがアートですから。振り返ってみると、体育系の大学に進む学生にも負けず劣らずハードな日々でしたが、とても濃密で有意義な時間でした。
つながれば
物語が動きだす
『clignote vol5』(2019年制作)
油彩・アクリル・キャンバス/110×80cm
美術教育と創作は相容れない部分もあるのですね。
ひと言で美術教育といっても、対象は乳児から大人まで幅広く、その目的も情操教育、受験対策、生涯学習などさまざまです。僕も大学院に進んでからはアルバイトで美術予備校の講師を務めるようになり、生まれて初めて教える立場として美術教育に携わりました。
知識や技術を伝える際には、その人の特性を見極めて、時として言い方や表情まで選びながら、個別に関わることが大切です。特に絵画の場合は、相手が理解できたことが実際の描写にもすぐに表れてきます。抽象的な表現でしか伝えられない感覚ではありますが、生徒が描き直した線一本を見て「あ、伝わったな」と感じられる瞬間は、やはり嬉しいものですね。
予備校講師を5年間務めた後は、助手として大学の研究室に戻り、現在は常葉大学教育学部の学生や地域で活動するクリエイターの皆さんと関わる毎日です。幸いにもこれまでいろんな形でアートと関わり、多くの人と交流してきたことで、広い視野を持つことができたのかなと思います。アートを突き詰めていくと、やがてコンテンポラリーと呼ばれる現代美術的な方向へ向かっていきます。作家の独創性や難解な表現ばかりが重視されているように思われがちですが、現代美術は「関係の美学」ともいわれていて、表現する素材や鑑賞者との対話、つまり複数の関係性によって成り立っているんです。
現代美術は時代を超越して単独で成り立つものではなく、むしろその時代の人や物とのつながりによって生まれるということでしょうか。
僕のライフワークである絵画は、ある範囲で切り取られた平面構造の世界ですが、観る人によって立体的に浮かび上がって感じられたり、何かの形に見えたりする瞬間があります。それらはイリュージョン、つまり錯覚なのですが、僕は自らの作品を通じて、その感覚がどのように発生して、観る人に影響を与えるのかを検証・研究したいんです。
作品のイメージとして一つ例を挙げるとすれば、星座です。星座は本来、無作為に配置された点でしかありませんが、古代の人間はそれを眺めて、線で結んで、図像を浮かび上がらせて、物語を紡ぎました。星はただそこにあるだけなのに、鑑賞者との関係性の中で、実体を超えた意味が与えられます。まさにイリュージョンですよね。また星座は一見すると平面的ですが、そこには立体的な構造や時間の概念も含まれています。
僕の絵画も、アトリエで描いた時点ではまだ作品ではなく、人の目に触れた瞬間に社会性を帯びて、観る人の中に図像が現れてくる。その出来事自体が作品なんだと考えています。このような視点に立つと、ENの活動でアーティストと交流することも、大学で若い学生に経験を伝えることも、すべては人と人の関係性が生み出す「作品」であるといえます。
僕はまもなく還暦を迎えますが、これから先は人や物との良好な関係性を探求しながら、より丁寧に生きていきたいという思いがあります。日常の中で関係性を意識することは、アートに馴染みがない人にとっても重要です。当たり前だと思って過ごしている環境や他者との関わりの中で、「本当にそうだろうか?」と疑ってみることから気づきが始まり、少しずつ世界観が変わります。そして複数の視点をバランスよく持つことで、相手の気持ちを理解することや感謝にもつながります。それこそがアートの可能性であり、役割ではないでしょうか。アートはどこか遠いところにある華やかな世界ではなく、誰にとっても身近にあるものなんです。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Cover Photo/Kohei Handa
長橋秀樹
クリエイター集団 EN 代表
常葉大学 教育学部 初等教育課程 教授
1963(昭和38)年12月6日生まれ(59歳)
沼津市出身・在住
(取材当時)
ながはし・ひでき/原中学、日大三島高校、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒。同大学大学院美術研究科修士課程修了(芸術修士)。高校3年生から沼津美術研究所で青木一香(いっこう)氏、鈴木康雄氏に学ぶ。大学在学中は故・榎倉康二(えのくらこうじ)氏に師事。大学院に進んでからは都内の美術予備校や高校での講師、榎倉氏の助手などを務め、美術教育・研究の現場に幅広く携わる。2001年より常葉学園短期大学保育科准教授、2013年より常葉学園大学教育学部准教授、2019年より常葉大学教育学部教授。2015年、自由な表現活動と相互交流を目的としたクリエイター集団『EN』を結成し、以後代表を務める。専門の油絵に加え、立体造形作品の制作やインスタレーションにも取り組み、これまでに個展・グループ展の開催多数。
EN
ウェブサイト
Nutshell 〜取材を終えて 編集長の感想〜
今回の取材のきっかけは、本紙Vol.194に登場した美術家・伊藤千史さんの個展を観に長橋さんの拠点とするDHARMA沼津を訪れたことでした。閉鎖された古い印刷所を利用したその場所は、かつてそこで営みが行なわれていた頃の活気の残り香と、夢が終わり人々が去ってしまったあとの物悲しい静けさが入り混じった、芸術的インスピレーションが漂う不思議な空間でした。
コンテンポラリー・アートについて長橋さんが「素材の持つ言葉を見つけ、素材との関係性をつくる」ことだと語っていたとき、私はその不思議な場所のことを思い浮かべていました。印刷所跡の建物が持つ言葉と、アーティストが持つ言葉が混じり合い、でもその言葉は言語化されるかされないかのぎりぎりのところで留まっている。観る側である私は、それを言語化して説明しようと試みるのだけれど、やっぱり言語化できないままでいる。だけどコミュニケーションは成立していて、そこに場所・観せる人・観る人という3者の関係性がしっかり生まれている。長橋さんの語るアート論を聞いて、私自身は「ああ、なるほど、そういうことだったのか」と少し腑に落ちた気がするのだけれど、やっぱりそれを皆さんに言葉で説明するのは難しい。
今回の話のキーワードは「言語化」です。長橋さんは「言語化すると明確になる一方で、こぼれ落ちていくものがある」と言います。もしかしたら4,000字の記事として伝えるのはそもそも難しい話なのかもしれない。ではどうすればいいか?各地で開催されているアート展に自ら足を運び、そこに並んでいる作品たちと言葉にならない対話をしてくればいいのです。
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