Vol. 107|作曲家 渡井 ヒロ

渡井ヒロさん

夢とともに、あるがままに

富士市在住の作曲家・渡井ヒロさんは、オーケストラの楽曲制作を得意としつ、ジャンルの枠を超えて音楽業界の最前線で活躍する人物だ。華やかなステージ上でスポットライトを浴びる指揮者のような姿をつい連想してしまうが、作曲家は地道で気の遠くなるような「裏方仕事」とのこと。 ピアニストを志し、夢と希望に溢れた二十代前半での大きな挫折、そこから今に至る経緯や心の内に秘めてきた思いに、強く胸を打たれた。 「表舞台には縁がないから―」。笑顔でそう語る渡井さんだが、音楽を愛し、誠実に向き合い続けてきたからこその長き葛藤が、彼を芸術家としてより一層の高みへと導いたことが窺える。 人生は、組曲。断絶や変節と思えた出来事がいつの間にかつながって、豊かな彩りとなっていく。深夜のスタジオやオーケストラの舞台裏を活躍のステージとする渡井さんのもとには、今日も光が射している。

耳で聴いたメロディーが無数の音符に生まれ変わる

渡井さんの仕事の多くは「オーケストレーション」とのことですが、聞き慣れない言葉ですね。

日本ではまだあまり知られていませんが、簡単にいうと、依頼主が望む編成で演奏できるように楽曲を作り直すことです。作曲業の中でも専門性の高い分野で、元々スコア(総譜)に変換されていない楽曲も含めて、演奏の編成を組む過程で各楽器のパートごとに振り分けながら音符に書き起こす作業です。音を分解したり、大きな音に紛れた小さな音の存在を推察したり、例えるなら画家が絵具を選ぶような感じで、頭の中でいろんな楽器の音を鳴らして、混ぜ合わせて、色合いを作っていきます。 ここまでは作曲家なら誰でもやることですが、オーケストラの場合、重要かつ難しいのが、20~30種類もの各楽器の特性や音域、技術的な制約についての知識と理解です。基本的には木管楽器・金管楽器・弦楽器の3つのグループごとに音を作って、それに打楽器を加えながら細分化していきます。管弦楽法において各楽器についての理論も学ぶ必要があり、どの楽器のどんなフレーズが適切か、どうすれば奏者が演奏しやすいかなど、脳のあらゆる場所を最大限に使って書いているような感覚です。

作曲は単にメロディーを考えるだけではない、複雑な作業だということですね。

質・量ともに高度なものが求められる上に、期限付きのプロジェクトをいくつも並行して進める場合など、スタジオに泊まり込むことも珍しくありません。以前は各楽器のパート譜を専門に制作する写譜屋と呼ばれる業者にスコアを送れば済んでいたものが、最近では作曲の現場もIT化が進みパソコンの専用ソフトで制作するため、作曲家が写譜屋や印刷屋の仕事まで一買してやらざるを得ないことがほとんどです。 また年末のフィギュアスケートのように全国で生放送されるテレビ番組などの仕事は、作業やリハーサルの時間が極端に短く、かつ正確なスコアが要求されるため、緊張感も並大抵ではありません。とはいえ、指定された曲のCDを渡されて、そこからオーケストラ用のスコアを組み立てていくという作業は誰にでもできることではなく、とてもやりがいのある仕事です。

作曲家として地域との関わりはありますか?

結婚を機に富士市に住み始めて、仕事先としては東京や海外とのやりとりが大半ですが、制作作業は基本的に地元で行っています。自然のある環境が大好きで、創作の必須条件といってもいいくらいです。近くで気に入っている場所は広見公園の雑木林にあるベンチで、時間さえあればふらっと訪れています。富士川の河口や潤井川の土手も好きで、よく散策しながら浮かんだメロディーを五線譜にメモしています。 最近はプロ・アマを問わず富士で音楽活動をしている方々とも少しずつ面識ができ、いい信頼関係を築きながら、3年前からはコンサートも開催しています。現在、来年の富士市市制50周年を記念した「富士市民歌」のオーケストラバーションの制作にも取り組んでいるところです。記念イベントも行われる予定なので、そこで披露できるような交響詩を書けたらと考えています。 また地元を意識する一方で、今後は海外での活動にも積極的に取り組んでいくつもりです。昨年にはチェコの名門であるフラハ交響楽団を訪れて自作のスコアを提出するなど、具体的な動きも始めています。いずれは富士や静岡をテーマとした作品も世界に向けて発信していきたいですし、その曲をヨーロッパの一流オーケストラが演奏する姿を想像すると、ワクワクしますね。

以前はピアニストとして活躍されていたそうですね。

クラシックピアノを習い始めたのは幼稚園の頃です。とにかくオーケストラが大好きな子どもで、家にクラシックのLPレコードがたくさんあったので、いつもそれを聴きながら、指揮者の真似をして遊んでいました。作曲にも憧れて、小学生の頃から実際に自分で曲を作るようになりました。その後いろんなジャンルの洋楽を聴くようになり、高校時代にはバンドを組んで、ライブハウスでジャズやフュージョンのライブ活動をしていました。この頃には将来スタジオミュージシャンになりたいという明確な夢があって、卒業後に上京してからはジャズピアニストに弟子入りして、音楽理論の勉強も並行しながら、少しずつピアニストとしての仕事ももらえるようになりました。 そんな中、人生の転機となったのが、22歳の時に突然襲われた『フォーカル・ジストニア』という病です。演奏の本番中、突然右手の薬指と小指が動かなくなったんです。自分の意志に反して身体の一部が筋肉収縮を起こす神経疾患で、複雑な動作を繰り返す音楽家に多く見られるらしいのですが、僕の場合は日常生活には全く支障がなく、なぜか演奏になると不規則に指が動かなくなります。詳しい原因や根本的な治療法は今でも確立されていません。最近では少しずつ認知されてきましたが、僕が発症した22年以上前は、どこの病院に行ってもお手上げで、ようやくたどり着いた大学病院で初めて病名を知ったという状況でした。当時すでにピアノを職業として生活していましたし、あまりのショックで最初の2年間くらいは自分の身に起きた事実を受け入れられず、精神的にもどんどん追い込まれていきました。

自分の現実を作るのは、自分

人生最大の挫折と失意の中で、その後どのようにして立ち直ることができたのですか?

時間が経過していく中で少しずつ『このままじゃダメだ』と思うようになって、ピアノの演奏が難しくても、小さな頃から憧れていたオーケストラと作曲の道でやっていこうと、心に決めたんです。そこからは本当に猛勉強しました。音楽理論はもちろん、必要な知識を得るために海外の学術書や英詩を原典で読みたくて、またヨーロッパの音楽関係者とスムーズにコミュニケーションを図れるようにと、学生時代には一番の不得意科目だった英語を徹底的に勉強しました。辞書を3冊潰すほど必死に取り組んだところ、逆に翻訳の仕事を依頼されるまでになりました。さらに人がやらないことをやろうと、耳で聴いた曲を楽譜に変換していくトランスクライビングという作業を、オーケストラの曲で何度も繰り返して、身体に叩き込んでいきました。 それでもピアノへの思いは断ち切りがたく、つい数年前までは比較的簡単な演奏の仕事も受けていたんですが、頭では動きが分かっているのに、思い通りに演奏できないことが悔しくて悔しくて、舞台裏で壁を殴って泣いたことも何度もあります。そんな時、心の支えになったのがベートーヴェンでした。広く知られている通り、彼は人生の半ばで聴力を完全に失いましたが、それ以降に、歴史に残る交響曲『運命』や『第九』を書き上げました。彼は耳が聞こえなくてもあれだけの名曲を作ったのに、自分がこんなところで諦めるわけにはいかないと奮起して、とにかくオーケストラのスコアを200曲、トランスクライビングしてやろうと決めました。ベートーヴェンは有名な9作の他に、生涯に200曲近い交響曲の習作を作ったといわれているからです。 そのうちにテレビCMなど作曲の仕事が少しずつ入ってくるようになりました。CMなどはコンビューターで音を作る打ち込みという手法が主流で、本来はスコア自体が不要なことも多いのですが、僕はあえてそれを作って、音符を書く作業を意識的に増やしました。そうしていくうちに新たな人脈も生まれ、目指していたオーケストラの仕事にも発展していったという感じです。

渡井さんの書く曲にはそれだけの強い思いが込められているんですね。

実は病気のことは今までほとんど人に話してきませんでした。発症から何年も経っているのに、なんとかならないかと期待しながら、一日3時間くらいピアノを弾いていました。でもようやく最近、自分がピアノを弾けなくなったことには何か理由があるはずだと考えられるようになったんです。同じ病気で苦しんでいる人がいるとすれば、その人たちを勇気づけるためにも、ピアノで果たせなかった夢をオーケストラで実現して、自分の思いを音符でとことん表現してやろうと。そしてこの年月を振り返って感じるのは、自分の現実を作るのはあくまでも自分自身だということです。『引き寄せの法則』という言葉もありますが、重要なのは心のあり方で、大きな苦しみを前にしても、それをどう捉えて進んでいくかによって、人生は変わります。この思いは誰に教わるでもなく、自らの経験の中で気づき、身につけたもので、僕の音楽活動の核にもなっています。

表現者として、一番大切にしていることは?

個性や多様性ですね。情報が氾濫している一方、人間それぞれの価値を見出しにくくなっている世の中で、まずは自分が心から良いと思えるものを尊び、大事にすることです。そうすることで他人の個性や考えも尊重できるようになると思います。とりわけ芸術においては、個のユニークさこそが命で、僕たち芸術家は作品や言動を通して、そのことを広く伝えることができます。僕の経歴は音楽家としては異色で、音大や芸大を出たわけでも、有名なオーケストラに所属していたわけでもありません。ただ、病気でピアニストとして一流になれなかった悔しさを抱えながら、なんとか人に認められたいと必死に努力してきたという自負があります。それだけに、特に若い人には、『君は君のままでいいんだ』と伝えたいです。ある場所にたどり着くために、その方法はいくつもあって、他の人から見れば遠回りでも、本人にとっては全て意味のある過程なんです。 また自分自身を振り返ってみると、仕事の規模や環境は変わっても、表現していることの本質は若い頃と何も変わっていません。芸術とは本来誰にでもできる表現で、本当に重要なのは技術ではなく、心です。言い換えれば、人間は何かを達成したから価値が出るのではなく、人間そのものにそれぞれの価値があるということです。僕も若い頃はそのことに気づけませんでしたが、今は胸を張って言えます。これまでに触れ合ってきた素晴しい音楽と愛する人たち、そして思い通りに動かないこの右手が、僕に大切なことを教えてくれたんです。

Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino Text & Cover Photo/Kohei Handa

渡井 ヒロ 作曲家 静岡県出身・富士市在住 (取材当時)

わたい・ひろ/幼少期よりクラシックピアノを習い、小学生の頃から作曲を始める。中学・高校時代にはロック、ソウル、ジャズ、フュージョンにも傾倒し、ライブハウスを中心に演奏活動を行う。静岡県立韮山高校を卒業後に上京し、声楽・ビアノを松下隆二氏、ジャズピアノを板橋文夫氏および元T-Squareの和泉宏隆氏、アンサンブルを橋本一子氏に師事。ピアニストとしてライブやスタジオワークをこなしていたが、原因不明の神経疾患フォーカル・ジストニアを発症し、演奏に支障が生じる。その後は作編曲に専心し、独学で管弦楽法・作曲法を学ぶ。数多くのテレビCM、プロモーションビデオ、「バイオハザード」をはじめとするゲーム音楽、全日本フィギュアスケート選手権に合わせて開催される「メダリスト・オン・アイス」での楽曲のオーケストレーションに携わるなど、多彩なジャンルや編成による音楽制作を精力的に行う。地元富士市では2012年以降、チェコ弦楽五重奏団やプラハ・スピリット・クインテット、バルナス・アンサンプルなど、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団やプラハ交響楽団のメンバーが出演するコンサートでの楽曲アレンジや自作曲の発表を行う。また、2014年にはチェコに赴き、プラハ交響楽団のマネージャーであるマーティン・ルドフスキー氏に自作スコアを手渡し、親交を深めるなど、今後の活躍の幅を広げつつある。

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