Vol. 121|富良野自然塾 中島 吾郎
北の国より見た景色
来年3月に富士市ロゼシアターで上演される演劇『走る』。テレビドラマ『北の国から』で知られる作家・倉本聰氏が脚本・共同演出を手がける話題作だ。長年にわたり演劇界を牽引し、つい先日、第一線からの引退を表明した倉本氏にとっては、まさに集大成の作品となる。 この興行の富士公演実行委員会を組織し、広報担当のプロモーターとして奔走するのが、今回紹介する中島吾郎さんだ。倉本氏の哲学や価値観に感銘を受けた中島さんは10年前に北海道富良野市へ単身移住し、NPO法人『富良野自然塾』のプロジェクトマネージャーとして、環境教育プログラムを実践している。観劇文化の縮小が指摘される中、『走る』の公演を機に地元富士市の文化活動を盛り上げたいと語る中島さん。その柔軟な発想力と行動力によって、活躍のフィールドは着実に広がりつつある。
富士市出身の中島さんですが、現在は北海道にお住まいとのことですね。
作家の倉本聰が理事長を務めるNPO法人『富良野自然塾』で働いています。倉本聰といえば俳優や脚本家を養成する『富良野塾』が有名ですが、自然塾も同じく北海道富良野市を拠点とした組織で、環境教育活動を行っています。ゴルフ場の跡地を植樹によって森に還す取り組みや、地球の歴史46億年を模した460メートルの道を作り、環境について学ぶ『地球の道』というプログラムなどが主な事業です。 『地球の道』は参加者自身が自然の中で歩いた時間や距離を通じて体感的に学べる仕組みで、倉本聰監修による演劇的手法が取り入れられています。演劇では何もないところでドアを開く仕草をしたり、舞台袖に向かって話したり、実際にそこにはないものの存在を感じさせる技術を使いますが、このプログラムでもただ情報を説明するだけではなく、参加者との対話で想像力と好奇心をかきたてながら引き込んでいきます。僕も現場に出る前には伝え方、目線、間合い、滑舌、声の大きさなど、倉本先生から厳しい稽古を受けました。演劇と同様に役者と観客の間に双方向の関係性があって、そこにさまざまな演出効果が加わって作り出されるライブ感が一番の魅力だと思います。
上場企業の社員を辞めて北海道に移住した経緯は?
いろんなタイミングが重なったという感じです。以前から大ファンだった倉本先生が始めた富良野自然塾の求人を見て、最初の動機は不純なんですが、応募して面接まで行けば本人に会えるかなと思いまして(笑)。本当に面接まで進んだところで、倉本先生から夢を熱く語っていただき、その思いを実現しようと富良野行きを決意しました。実際にはこちらの都合は聞かずに、『それで君、富良野に来るの?来ないの?』という感じで半ば強引に口説いていただいたんですけどね(笑)。 大学卒業以降、IT関連企業に7年間勤めていて、大きなプロジェクトにも関わっていました。仕事は忙しいながらもやりがいがありましたが、富良野自然塾の理念に共感する気持ちと、倉本聰のそばで働きたいという思いが後押ししました。ちょうどその時は僕が30歳になる年で、身近で甥や友達の子どもが生まれて、子どもと関わる機会が多かったことも影響しました。僕自身は今も独身ですが、未来を担う子どもたちのためにどんな社会を築くべきか、地球をどんな形で残せるのか、自分にできることは何なのかということを考え始めた時期でした。 日々に疲れたIT企業のサラリーマンが憧れの田舎暮らしへ、というようなストーリーではなく、自分としてはあくまでもキャリアの延長線上でステップアップしたつもりです。実際に前職で培ったプログラミングやウェブサイト作成の知識は今も大いに役立っています。周りからは転職に反対もされましたし、この決断が正しかったのかどうか、最終的な答えは誰にも分かりませんが、充実した毎日であることは確かです。富良野自然塾の利用者は年間3千〜4千人ですが、これだけ多くの人へ環境に関するメッセージを発信できるのは幸せなことです。最初は後ろの方でつまらなそうにしていた子が最後には一番前で熱心に話を聞いてくれたり、後日手紙を送ってくれる子がいたり、直接的な反響があった時はなおさら嬉しいです。
間近で見る倉本聰さんはどんな方ですか?
他人にも自分にも厳しい方で、仕事に対する姿勢は並大抵ではありません。10年経った今でも接する時には緊張します。現状に満足することなく、どこまでも高みを目指す生き方には学ぶところが多く、この先も僕の人生の指針であり続けると思います。 倉本先生は講演などでよく富士山の話をします。まず聴衆に『この中で富士山に登ったことがある人はいますか?」と問うと、東京あたりでも半分くらいの人が手を挙げますが、そこで『でもそれは5合目からでしょう。じゃあ海抜0メートルから登った人は?』と聞くと、たいてい一人もいないんです。倉本先生はこれが今の社会の縮図だと指摘します。富士山という存在を車で行ける5合目から先しか考えず、それで良しとしてしまうから視野が狭くなってしまう。本来はまず海抜0メートルの地点に立って、いろんな選択肢を考えながら向き合うべきなのに、さらに文明が進めば6合目までエスカレーター、7合目までヘリコプターとなって、結果的に人間の想像力はどんどん失われていく。だからこそ我々は常にゼロから始めよう、と。その考え方を『海抜0メートルの思想』と呼んでいますが、富士市に生まれて、まさしく海抜0メートルからの富士山を見てきた僕にとっては特に感慨深い言葉でした。
本物に触れたら、人生が変わる
『北の国から』『前略おふくろ様』『風のガーデン』などのヒット作を生んだ作家・倉本聰氏は、俳優・脚本家の育成や環境教育活動の推進に尽力してきたことでも知られる
中島さんご自身の自然に対する思いはどのように養われたのですか?
普通のサラリーマン家庭で育ちましたが、両親が山好きで、信州などによく連れて行ってもらいました。ファミコン全盛の世代ですが、ゲームよりも自然の中で遊ぶ方が好きでした。それと、やはり『北の国から』の影響は大きいです。小学3〜4年生の頃、風邪で学校を休んだ時にたまたまテレビで再放送を観て、子どもながらに感動したのが最初でした。そこからのめり込んで、中学生の頃には小遣いで倉本先生の本を買うようになりました。 『北の国から』では特に田中邦衛さん演じる主人公・黒板五郎の人間味溢れるキャラクターと、生きていく上で必要なものは水道も家も、何でも自分で作ってしまうエネルギーに刺激を受けました。もう35年以上前のドラマですが、そこには文明の進化とは対照的に人間そのものは退化していく現代社会への警鐘が込められていると思います。ちなみに、僕の名前は主人公と同じ「ゴロウ」なので、不思議な縁も感じます。富良野に住んでいるとたまに、『黒板五郎から取った芸名ですか?」とか言われるんですけど、本名ですよ(笑)。
そんな中島さんが現在地元で広報活動をしているのが、倉本聰さんが手がける演劇作品『走る』ですね。
『走る」の初演は1997年で、富良野塾の塾生たちの1年間の生活をマラソンに例えて描いた作品でした。上演中ずっと役者が走り続けるという独特な演出で、演劇の感動がスポーツの感動に太刀打ちできないと感じた倉本先生が、役者にアスリート並みの汗を流すことを求めて書き上げたものです。今回の公演ではそこに戦後70年間豊かさを求めて走り続けた日本人の姿を重ね合わせて、目指すべき社会のあり方や人が生きることの意味を問いかけます。主な出演者はプロの役者で、すでに稽古漬けの毎日を送っていますが、舞台では人間が走る姿そのものの美しさも感じてほしいです。また、各地域の一般市民から募った数十人のランナーが本番の舞台で実際に走るという斬新な試みもあり、舞台上を走る知人を偶然見つけるということもあるかもしれませんよ。 今回は富良野以外にも全国16都市を回りますが、富士は最後の遠征地です。一度形が決まったら後はほとんど顔を出さないという演出家も多い中で、倉本聰は一切妥協せず、各公演ごとに演出をより良いものに変えていきます。その意味でも富士公演は全国ツアーを経た完成形の芝居になると思います。また、倉本先生はこの『走る』を最後に脚本家・演出家を引退する意向を明らかにしています。倉本作品に生で触れることができるラストチャンスですので、ぜひ多くの方に観ていただきたいです。
中島さんは『走る』の広報以外にも富士市で活動しているそうですね。
冬の富良野は雪に覆われて屋外での活動ができなくなるため、その間は道内の小学校などへ出張授業に行くのですが、富士市で環境問題の講師を紹介する環境アドバイザーの制度があることを知り、5年ほど前から富士市内の小学校でも環境学習の授業をさせてもらっています。遠く離れた土地で暮らしてきたことで、違った角度から故郷を眺めることができるようにもなりました。今後も富良野が拠点にはなりますが、やっぱり富士は一番好きな町ですし、地元での活動にも力を入れていきたいです。 環境教育では富士山というシンボルを背景とした『富士山自然塾』のようなプロジェクトもいつか実現させたいですし、文化面では今回の『走る』の公演にとどまらず、優れた作家の作品に触れることができる場を作れたらと思います。文化に親しむ、育むというのは一朝一夕にできることではありません。大切なのは、幼い頃から誰でも日常的に本物に触れられる環境を整えることです。ここでの本物とは、作家が有名かどうかではなく、真剣さや覚悟の度合いとして、プロフェッショナルが作り出したもの、という意味です。 それともう一つ大切なのは、純粋に楽しめるかどうかです。文化だ芸術だと語っても、結局はそれを味わう人にとって楽しいものでなければ長くは続きませんし、人に伝えたい、勧めたいとは思いませんよね。本物の文化を大切にして、身近で当たり前に共有できるような雰囲気を、自分なりのやり方で次の世代に残していきたいと思っています。
【表紙・撮影協力】富士市文化会館ロゼシアター
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino Text & Cover Photo/Kohei Handa
中島 吾郎 NPO法人 富良野自然塾 理事・プロジェクトマネージャー 富良野GROUP 特別公演『走る』富士公演実行委員会 1977(昭和52)年3月12日生まれ(39歳) 富士市出身・北海道富良野市在住 (取材当時)
なかじま・ごろう/田子浦小、富士南中、富士高校を経て、法政大学工学部に進学。2000年に卒業後、富士通株式会社に入社。沼津工場での勤務を中心に、ソフトやシステムの開発事業に従事。2007年に同社を退社し、NPO法人「富良野自然塾」のスタッフとして北海道富良野市に移住。体験型環境教育プログラムのインストラクターとして活躍し、現在に至る。冬季には地元に戻り、「富士市環境フェア」でのブース出展や、富士市環境アドバイザーとして富士市内の小学校で環境問題に関する授業を行うなど、個人での活動にも精力的に取り組んでいる。来年3月に富士市ロゼシアターで上演される演劇「走る」のプロモーターとしても活動中で、富士市の文化力向上のため、地元の有志を募り立ち上げた実行委員会の中心的役割を担う。
富良野自然塾 ゴルフ場跡地を植により元の森に再生する自然返還事業と、訪れた参加者に地球や自然の大切さを伝える環境教育事業を行うNPO法人。作家・倉本聰氏が塾長(理事長)となり、2006年に発足。子どもから大人まで参加できる体感的なプログラムを通じて、環境問題の解決に努めている。 写真右:倉本聰氏による講義(右奥が中島さん) TEL:0167-22-4019 WEB:http://furano-shizenjuku.com/
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