Vol. 122|能楽師 田崎 甫

継承の意味

日本初のユネスコ無形文化遺産――能楽。近世以前は猿楽と呼ばれ、660年にも及ぶ歴史を持つ。各種芸能はもとより、一般大衆の生活様式にも大きな影響を与えた、まさに日本文化の源流といえるものだ。とはいえ、現代において日頃から能楽に親しんでいるという人は多くないだろう。中でも神事として扱われ、世俗の娯楽文化とは一線を画してきた能は、我々にとって近くて遠い存在なのかもしれない。 シテ方宝生流能楽師・田崎甫さんは、28歳にして芸歴はすでに22年。能楽界の本流を歩み続ける若き担い手だ。能楽師である叔父の芸養子として入門して以来、いつやめることもできたはずの環境の中で、揺らぎや戸惑いを感じながらも厳しい修行をこらえ抜いた少年期。そして今に至るまでの過程には、技芸の道を単なる好き嫌いや向き不向きで捉えるのではない、公に尽くす使命感が宿っている。

田崎さんが能の世界に身を置くことになったきっかけは?

父方の祖母が宝生流の家系で、私は6歳の頃、能楽師の叔父のもとに芸養子として通い始めました。直系ではない親戚の子を芸養子として迎えるのは珍しいことではありません。私の3人の姉も含めて、親戚の中には他に男の子がいなかったので、叔父は私が生まれた時からずっと期待していたようです。当時は特別な習い事に通うような感覚で、稽古は厳しかったですが、公演後にご美として周りの大人から高価なおもちゃを買ってもらえるのが嬉しくて、それを目当てに舞台に立っていた記憶があります(笑)。 そんな中、世界が一変したのは中学からです。実家を離れて叔父の家で住み込み修行を始めたのですが、その生活が辛くて辛くて、中学・高校の頃は何度も脱走しては迷惑をかけていました。稽古のない日はなく、学校以外では友達と遊びに行くこともできず、叔父に呼ばれたらすぐに駆けつけないといけないので、扉を閉めて眠ることすら許されませんでした。今にしてみるとすべては芸につながる修行で、叔父には感謝の気持ちしかありませんが、なにぶん当時は精神的にも追い込まれて、食べたものは吐いてしまうし、怒られてばかりなので当然ながら稽古にも身が入りません。本当に過酷な日々でした。

子方(子役)の仕舞を披露する6歳頃の田崎さん

そんな厳しい状況の中、本格的に能楽師の道を歩む決意をした経緯は?

私は世襲する立場ではなく、能をやめるという判断もできましたが、高校1年の時のある出来事が転機になりました。「箙(えびら)」という舞囃子を演じた舞台の後、叔父が穏やかに『うん』と頷くだけで、叱らなかったんです。芸を褒めるということは皆無で、何をやっても『駄目、駄目、駄目』としか言わない叔父の姿しか知らなかった私には衝撃的な体験で、そこで何かが変わったような気がしたんです。もしかすると能の世界にはまだ自分が知らない絶対的な正解や完成形のようなものがあるのかもしれないー。そんな予感とともに光明が差した感覚です。ずっと受け身で嫌々取り組んでいた能に初めて主体的に向き合えた瞬間でした。 以後は自分なりに準備をしてから稽古に臨むようになり、身につく内容も増えました。そしてまるで生まれ変わった人間のようにーと言いたいところですが、そう都合良くいかないのが現実です(笑)。意識は変わったつもりでも、その後も相変わらず迷って、間違えて、怒られて、逃げ出してと、未熱なまでしたが、少なくともあの時感じた充実感や向上心が私を突き動かす原点になったことはたしかです。高校3年の進路選択では能楽師の道を進む意志が固まり、自分の将来だけではなく、能という伝統を未来へと繋いでいく覚悟とともに、東京藝術大学への進学を志望しました。大学卒業後は同世代の書生仲間と共同生活をしながら、能楽師としての修行を重ねています。

芸歴20年を超えても書生、つまりまだ半人前ということですね。なおさら能の奥深さを感じます。

能は息の長い芸能で、40代でも若手と呼ばれます。能の創始者・世間弥も『風姿花伝』という理論書の中で、技術と身体のバランスが最も良いのは人生の壮年期であると説いています。私の年齢はまだまだ駆け出しで、とにかく稽古を積んで、多くの経験をさせてもらうという段階です。その中で最近分かってきたのは、仕舞でも謡でも、師匠に駄目だと指摘される下手さというのは、結局のところ『違和感』だということです。逆にいえば、全く違和感のない境地が存在すると仮定した時に、芸はもちろん、能楽師としての言動や生き方においても目指すべき姿が見えてくるんだと思います。 どの分野にもごく少数ながら天才的な才能を持った人はいますが、私はそうではない、ただの凡人ですので、削って削って削り続けて、最後にほんの少しの何かが残るかどうかという瀬戸際で戦っています。叔父の家では大学卒業まで10年間過ごしましたが、この時期に徹底的に厳しく育てられたことが、これから先の人生で活きるはずです。また、家族の存在も大きいです。高校時代に舞台で大失敗をして、迷惑をかけてしまった人々に会わせる顔がなく、やはり家出をしたんですが、その時迎えに来てくれたのが母でした。今でも両親は能の世界の一歩外側から私の活動を見守り、全面的に支えてくれていて、とても感謝しています。

見えない正解を
探し続けることが
伝統の襷となる

宝生流は能の流儀の中でも規模の大きな、いわゆる「能五流」の一つですが、現在の家元はどのような方ですか?

宝生流の当代宗家である宝生和英先生は私の三つ年上で、能楽師としてはまだ若いのですが、その振る舞いには感銘を受けます。宝生流では代々伝わる型や演目そのものを個人的に改変することはあり得ないのですが、お家元は能の本質や格式を尊重しながらも、これまでにない新たな取り組みに積極的です。自力で作った人脈を活かして海外での公演やワークショップを行なったり、宝塚との共演を企画したり、能の鑑賞中に専用のデジタル機器を装着することで、必要な文字情報などが表示されるAR(拡張現実)の技術との融合を試みるなど、能楽界全体の中でも革新的な存在です。 ただし、ここでも大切なのはやはり『違和感がない』ということです。本来、伝統芸能の嫡流は帝王学を学び、堅実で保守的なものを志向しがちですが、当代宗家は非常に柔軟な考えをお持ちで、なおかつ違和感を感じさせません。斬新でありながら決して異端ではない、そのギリギリのところに収めることができるのは、やはり幼い頃から稽古を積んで、正統なものを体現できる技量と感性があるからだと思います。私は決められたことをその通りにやるのは比較的得意ですが、0から1を生み出すような創造的な作業が苦手で、その点でも年齢の近いお家元から学ぶことは多く、常に手本としています。

昨年から富士宮でも能楽体験講座を始めたそうですが、この地域との関わりは?

母の実家が富士宮で、幼い頃から何度も訪れていますし、現在は両親が富士に住んでいるので、緑の深い地域です。静岡で能といえば三保の松原を舞合とした『羽衣』が有名ですが、今年はその羽衣の舞を題材とした能のグループレッスンを一般向けに開講します。静岡県民の気質はのんびりだといわれますが、全国各地を巡っていると、それを肌で実感できます。私は静岡のゆったりとした空気の流れが好きで、謡の呼吸と場のスピード感が実に心地いいんです。実際、早いテンポを好む関西などでは同じ演目をやっても静岡より10分近く早く終わってしまうこともあるんです。 将来的には講座だけではなく、シテ(主役)としてこの地での舞台に立ちたいです。能舞台には老松を描いた鏡板と呼ばれる背景がありますが、これは必須のものではなく、象徴的な背景があれば舞台演出は成立します。富士・富士宮には言わずもがな、富士山という最高の借景がありますよね。叔父が主宰する「夜桜能」という靖國神社での奉納行事に長く関わってきたこともあって、屋外での能楽には特に愛着とこだわりがあります。いつの日か富士山を背にして、この土地のゆったりとした空気感の中で舞うことができたら素晴らしいですね。

その他に今後取り組みたいことは?

長期的な課題としては、やはり能の普及活動です。スポーツなどとは違い、神事に由来する能の普及は難しい面もあると思います。一般向けに何でも分かりやすく噛み砕いて説明すること、手取り足取り教えることが正しいのかどうか、まだ私にも分かりません。あえて敷居を上げるようですが、一般の方でも、能を学ぶ上ではまず自分から動く必要があると思います。自分で考えて、調べて、舞って、もうこれ以上進めないというところまで突き詰めてほしいんです。安易に答えを求めると、その質問はたやすく軽いものになってしまいます。 この考え方は能の所作でも同じで、一度発してしまうと、その動きや言葉は後戻りができません。だからこそ、能においては適正な『間』が最も重要な要素とされています。象徴的なものとして、能の謡本では句点が文末ではなく、次の句の文頭につけられています。言葉の終わりに句点がつくのは本来西洋の文化で、日本の文化では文章の終わりは言葉とその余韻でなければなりません。句点はあくまでも次の言葉を発するまでの間、秒数では表せない独特な意味を持つ『余白の時間』の表現なんです。長い歴史を持つ能を学ぶことで、こういった日本語の妙、心の機微を汲み取る日本文化の奥深さをぜひ味わってほしいです。 ふだん何気なくやっている礼儀作法や当たり前だと思っている価値観にもきちんとした理由があって、能を通じてそれらの多くを説明することができます。能は動きが地味で面白くない、なんとなく小難しいと遠ざけてしまうのはあまりにもったいないです。能楽師にはそれを伝える使命があり、私は自ら選んでこの立場に身を置きました。そして何よりも自分の芸、出演する舞台が素晴らしいものになるように、これからも日々稽古に励んでいきます。

小面(こおもて)をいただく田崎さん(前)と師匠で叔父の田崎隆三氏(後)

【撮影協力】靖國神社

Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino Text & Cover Photo/Kohei Handa

田崎 甫さんプロフィール

田崎 甫 宝生流 能楽師 1988(昭和63)年9月24日生まれ(28歳) 神奈川県大和市出身・東京都千代田区在住 (取材当時)

たざき・はじめ/6歳より叔父の宝生流能楽師・田崎隆三氏に師事。同年「鞍馬天狗 花見雑児」で初舞台を飾る。獨協中学・高校を経て東京藝術大学音楽学部邦楽科(能楽専攻)に進学。卒業後は宝生流第二十代宗家・宝生和英氏の内弟子となる。靖國神社での「夜桜能」には第1回より出演を重ね、2011年には宝生流の若手能楽師が集う「五雲会」での演目「金札」で初シテ(主役)を務める。現在も書生として修行に励む一方で、国内外でのワークショップにも積極的に参加。2016年より母・幸子さんの出身地である富士宮市でも能楽体験講座を開始するなど、新たな活動にも取り組んでいる。

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