物に息づく思い出


さくらの音色 第6回
皆さんはずっと使っていたお茶碗を割ってしまったことはありますか?どこにでもあるようなお茶碗でも割れた瞬間、私は「ああ……」と思ったきりしばらく動けなくなります。
たいした思い出ではない。たとえば父が新聞を広げる音、母が割烹着を着て包丁をまな板に軽く打ちつける音。不思議なもので、そういうごく小さなことばかりが大きな出来事よりも、じんわりと胸に残ります。人は何を記憶して生きていくのでしょうか。
失って悔しいのは物ではないのかもしれません。そのお茶碗で何を食べたか、どんな会話をしたか。そういった大切な記憶が、いっぺんに自分のせいで失われた気がして動けなくなるのです。もちろん実際には失われてなどいません。けれども、形ある物に寄り添っていた記憶はどうも心もとないのです。 人は、物に思い出を預けているのかもしれませんね。
このたび富士市内の祖母の家が、驚くべきことに築100年近く経つということで、改装をしなくてはいけない時期が来ました。必要なことだとわかっていても、失うことにどこか怖さが残ります。私は祖母ではないけれど、その気持ちが痛いほどわかります。
古い引き出しを開けると、もう使わなくなった物ばかりが残っています。使っていないのなら処分すればいい、今はもっといい物がたくさんあるから新しくすればいい。でも、古い引き出しの中の物に記憶を託したい気持ちでいっぱいになるのです。 それらがなくても強く生きていける人間になってみたいものですね。「記憶があれば大丈夫!」と新しい物だけに囲まれて暮らす未来はとても怖くて、私にはできそうにありません。
周りの人は「古い物はもう処分すればいいんだよ」と言うでしょう。私も祖母に対しては「それでいいんだよ」と言います。でも同時に心の中では「ばぁば、お疲れさま」と思っています。
捨てられないのは物ではなく思い出なんだとつくづく思い知らされた今日このごろ。 祖母の気持ちに寄り添ってあげたいと思うのです。だから今、聴ける時に彼女の話をたくさん聴いて、思い出を私という“もの”に託していってほしいと心から思います。
お茶碗を割って心が痛むのは、そこに思い出があったから。たわいもない物に揺さぶられるような思い出が残せていたことに感謝なのかもしれません。
有名にならなくてもいい。すごくなくていい。ただ平凡な毎日の暮らしの中にある努力を、思い出を、笑って振り返れるように、悔いなく生き抜いていくことが、自分が自分である意味なのかな。
私は三味線弾きとして、たくさんのお客さんの前で衣装を纏って、大きな舞台に立っていますが、お茶碗が割れた瞬間、動けなくなります。涙が止まらなくなります。 立派な舞台でもなく、劇的な感動でもなく、むしろ誰にも見向きもされないようなごく平凡な思い出を、大事に大事に抱えています。
佐藤 さくら子
長唄三味線演奏家
さとうさくらこ/富士市出身。3歳より長唄三味線を始める。 伝統音楽の継承を軸に邦楽アレンジや作曲も手がける二刀流の長唄三味線奏者。富士高校、東京藝術大学音楽学部邦楽科、同大学大学院卒業。在学中6賞受賞。 サウジアラビア等海外でのイベントやデヴィスカルノ主催コンサートに出演。メディア出演も多数で、現在は静岡エフエム放送(K-MIX)にて『佐藤さくら子の今夜も!DOKKOISHO』(木曜21:30〜)放送中。 Netflix映画『超かぐや姫!』の劇中歌では声と三味線演奏を担当。2022年より文化庁事業親子教室、無料夏休み体験講座を子ども向けに開催するなど、伝統音楽の普及に尽力。東京と地元富士市の2拠点で長唄三味線の指導を行なう。
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。











この記事へのコメントはありません。