Vol. 210|武術太極拳選手 野田恵
巡り流れる太極拳
中国の伝統的な武術を源流とし、哲学や医学などと融合して編み出された、太極拳。静と動を併せ持つ独特な運動法は格闘技の枠に留まらず、健康増進やリラクゼーションの技法として長く継承されてきた。現代では太極拳を含む中国武術が体系的に整理され、国際競技としての標準化も進む中で、愛好者は右肩上がりに増えているという。沼津市を拠点に活動する武術太極拳選手の野田恵さんは、演武の技術を競う昨年の全日本選手権で2位の成績を収め、今年7月に開催される同大会では悲願である日本一の座を狙う。小学2年生から武術太極拳を学んできた野田さんの演武は、優雅な流れの中にも凛々しさや力強さを感じさせる。小学校教諭との二足のわらじを続けながら心身の鍛錬を欠かさない野田さんの一挙手一投足には、努力に裏打ちされた技術とひたむきな情熱が込められている。
太極拳と聞いてイメージするのは「ゆっくり動く中国の拳法」といった感じで、知っているようでじつはよく知らないという人も多いかもしれませんね。
そうですよね、私も「太極拳って、アチョー!って叫ぶやつ?」と言われることが多いです(笑)。国際的には中国語読みの「武術」という名で普及している中国武術の総称を、日本では「武術太極拳」と呼んでいて、その中の一種目として「太極拳」があります。多くの人がイメージするように、ゆったりとして滑らかな動作が太極拳の特徴です。武術太極拳には他にも、跳躍動作が大きくてスピード感のある「長拳」や、脚や腕を強く使って力を出す時に気合を発する「南拳」などの各種拳術があって、その中にもさらに多くの流派が存在します。
競技スポーツとしての武術太極拳には、相手と直接格闘して勝者を決める種目もありますが、規定の動作を行なって技術水準を採点する演武競技が中心です。動作の違いや、剣・刀・槍などの道具を使うものなど、種目はさまざまですが、私がおもに取り組んでいるのは「24式太極拳」と呼ばれるものです。太極拳の標準的な形式で、「白鶴が翼を広げた姿」や「琵琶を弾く姿」など、24の基本動作を連続して行ないます。初心者にも習得しやすく、太極拳を学ぶ人は誰もが身につけるべき技術ですが、それだけに奥が深く、競技人口も多い種目です。
とはいえ、太極拳をやっている人の大半は、健康増進や体力維持が目的です。老若男女を問わず身体一つで気軽に始められる点が魅力で、高価な道具も広い場所も必要ありません。激しい運動ではない反面、普段あまり使わない筋肉を使うので、見た目の印象以上に体幹が鍛えられます。太極拳のおかげで姿勢が良くなったという声もよく聞きますね。また、お年寄りや膝に痛みがある方でも、椅子に座って上半身だけを動かすなど、その人に合った形で無理なく楽しみながら続けられます。太極拳には「套路」という一連の動作の流れがあって、それを順番に頭の中で考えながら身体を使って表現することで、脳トレにもなります。さらには、心を鎮めて演武することで副交感神経が優位になり、リラックス効果があるともいわれているんですよ。
競技者として取り組む野田さんは、昨年の全日本選手権で2位の成績だったそうですね。
演武を終えた時点では「やり切ったぞ!」という気持ちがありましたが、僅差で1位には及びませんでした。今年もまもなく同じ大会があるので、ぜひリベンジを果たしたいです。競技は10点満点からの減点方式で、規定動作の正確さが徹底的に問われます。膝がほんの少し前に出ていたとか、静止する秒数が足りずに身体が一瞬ブレたとか、とても細かい部分が勝敗を分けます。結果を出すには日頃から納得するまで練習して、何も考えなくても身体が勝手に動くくらいに型を染み込ませないといけません。試合では毎回同じ動作をするわけですが、突き詰めるほど奥が深くて、飽きることはありませんね。全国1位になれたとしても、そこで自分の技が完成するわけではなく、より深く追求したくなるような気がします。完璧な演武の姿、究極のイメージだけは、いつも自分の中にあるんですよね。
また、精神面の鍛錬も重要です。格闘技や球技などの加点競技であれば、一度ミスをしても試合時間内で取り返そうという気持ちが湧きそうですが、太極拳は繊細な減点競技なので、約6分間の演武の中でほんのちょっと失敗しただけで、それまでずっと練習してきたものが台無しになってしまう怖さがあります。トップレベルの選手でも、一つのミスから一気に崩れたり、逆にその日のコンディションがいいとぐんと点数を上げてくる選手がいたり。私の場合は大会1ヵ月前くらいから体調管理と集中力を高める期間に入って、食事制限や集中できる時間を増やすなどして、心身を整えていきます。そして当日の会場では、とにかく自信たっぷりのオーラだけは発するようにしています(笑)。平常心を保ってやる気を高める意味もありますし、選手同士は試合前からお互いの様子を意識しているので、ある種の心理戦でもありますね。
太極拳と出会ったきっかけは?
物心がついた頃から母方の祖母と両親が趣味で太極拳をやっていました。週に一度、太極拳教室に行く祖母がお土産にお菓子を買ってきてくれるのが楽しみだったんです(笑)。そのうち祖母が何をしているのか気になって、練習に連れて行ってもらったのが直接の出会いです。第一印象としては、大人たちがゆっくり動いているだけで、なんだかつまらないなと(笑)。それでも大好きな祖母と練習に通うのが楽しくて。子どもの頃は太極拳ではなく、激しく動く長拳をやっていました。初めて大会に出た時のことは忘れられません。会場に入っただけで、その雰囲気に飲まれてしまったんです。試合どころか公開練習で人前に出るのも怖くて、奥の通路で一人ひっそりと練習していました(笑)。今では笑い話ですが、当時は人前に出るのが苦手で、お母さんと離れるのが嫌で泣きながら学校に行くようなタイプでした。
自分の中で火がついたのは、中学の頃にジュニア育成に力を入れているクラブに移籍してからです。同世代の選手たちがこんなに動けるのかと衝撃を受けました。試合で上位に入る選手の動きはやっぱり違いますし、会場の歓声も大きくなります。私は闘志を表に出すタイプではありませんが、心の中ではライバルに追いつきたい、追い越したいという気持ちがあったんですね。そこからは気合いと努力で成績もついてきて、ジュニア世代の大会では高校2年の時に全国1位になることができました。自分を高めてくれる環境に出会えたことに感謝しています。
現在は小学校で教員として働きながら、父が立ち上げた『沼津太極拳クラブ』に籍を置いて活動しています。父は24式太極拳の全日本選手権で3連覇を果たした実績があって、沼津以外でも多くの生徒さんに指導しています。クラブでの練習はもちろんのこと、父が作ってくれたメニューを毎日こなして、自分で撮った映像を見ながら動きを修正したり、父が自宅にいる時は直接指導してもらったり。忙しい教員の仕事と並行して続けるのは大変で、正直毎日ヘトヘトなんですけど、逆に何かしら動いていないと不安になる性格なので、短い時間でも集中して取り組むように心がけています。
究極のイメージは
自分自身の中にある
充実した競技生活ですね。これまでに大きな挫折や苦悩はありましたか?
じつは過去に一度、競技から離れたことがあるんです。保育士と小学校教師の資格取得を目指して短大に通っていた頃、長距離通学と授業で朝から晩まで大変で。試合でも思うような成績が出ず、練習時間の確保も難しくなったため、武術太極拳をやめることにしました。ところが、最初のうちは練習がないのも気楽でいいなと思っていたんですけど、勉強ばかりで身体を動かす機会がなくなると、だんだん気分が沈むようになっていきました。そんな状態が半年ほど続いたある時、祖母に「気分転換のつもりで、また太極拳やってみたら?」と勧められて練習に行ってみると、そこから心の調子が良くなったんです。教員を目指して頑張っていたけど、幼い頃から積み上げてきた太極拳はもっと深いところで自分を支えている大切なものなんだと、改めて気づきました。その後は競技に復帰して、短大も無事に卒業でき、今は教員生活6年目を迎えたところです。教師としてはまだまだ未熟で、日々学ぶことばかりですが、ありがたいことに学校の先生方からも太極拳の活動を快く応援していただいています。
これからの目標として、まずは全日本選手権で優勝することですね。そこにもやはり祖母の存在が大きく関係しています。じつは去年の12月に祖母の癌が判明して、今年の4月に亡くなりました。祖母に喜んでもらうためにも今年は絶対に全国1位を取ると強く誓って練習してきましたが、残念ながらその姿を見せてあげることはできませんでした。それでも祖母は最後まで、「この一年はいろんなところに視野を広げなさい」と私を導いてくれました。視野を広げるという意味では日本だけでなく、ゆくゆくは世界に出て活動したいという思いもあります。まずは国内でしっかりと成績を残すことで、その先に国際大会への出場も見えてきますし、祖母や両親、お世話になった多くの方への恩返しにもなると思います。また、武術太極拳はオリンピック種目になることを目指して普及活動を続けていて、最近では東アジアだけでなく世界中で競技人口が増えています。個人としても競技としても、まだまだ伸びしろがありますし、これからも大きな目標を持って、広がる世界に向き合い続ける自分でありたいです。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Cover Photo/Kohei Handa
野田 恵
武術太極拳選手
1998(平成10)年11月5日生まれ (25歳)
沼津市出身・在住
(取材当時)
のだ・めぐみ / 小学2年生の頃に祖母が通う太極拳教室を訪れ、武術太極拳と出会う。中学・高校時代からジュニア世代で全国上位の成績を収め、2023年の全日本武術太極拳選手権大会では第2位(女子24式太極拳Cの部)を獲得。所属する沼津太極拳クラブで代表を務める父・野田康太さんの指導のもと、さらなる高みを目指して練習を重ねる。短大で幼稚園教諭・保育士・小学校教員免許を取得し、卒業後は2019年より小学校教諭として勤務。現在に至る。
野田さん インスタグラム
@wushu_megu
沼津太極拳クラブ
沼津市総合体育館(香陵アリーナ)を拠点に活動するクラブで、全日本選手権3連覇を達成した野田康太さんが主宰し、指導を行なう。活動は毎週火曜(19:00〜20:30)と金曜(12:30〜14:00)で、初心者でも気軽に太極拳を学ぶことができる。体験レッスンも随時受付中。
Nutshell 〜取材を終えて 編集長の感想〜
昔、大学のスポーツ心理学かなにかの授業で「身体感覚は自己同一性の重要な要素だ」といった趣旨のことを教わった記憶があります。つまり、頭の中で考えることだけが「自我」なのではなくて、そこに自身の肉体があることを認識し、全身の神経や感覚器をつうじて自身の存在、自身の生命活動を感じることによってはじめて自分は自分たりうるのだ、といったようなことです。
日常生活に忙殺されていると(そして運動を怠けていると)、自分の存在がだんだん脳中心に偏っていきます。頭と心はフル回転している一方で、日常生活で必要な動きしかしなくなるので、自分の身体を自分でコントロールしているという実在感が次第に薄れていってしまう。デスクワーク中心の人、インドア系の趣味の人は特に要注意ですね。人は精神だけで生きるにあらず、です。
沼津市総合体育館の武道場で野田さんの太極拳を見ながらそんなことを考えていました。すべての筋肉と関節を完璧に制御下に置いたような緻密な動き。研ぎ澄まされた「気」は体幹から指先までくまなく巡り、なめらかに流れ続ける。いや、もちろん私には「気」なんて見えませんけど、そんな気がしました。とにかくかっこいいんですよ。今回は文字と写真でしかお伝えできないのが悔しい。ぜひ野田さんのインスタグラムにアクセスして、武術太極拳の流麗でたおやかな演武を見てくださいね。
- Face to Face Talk
- 地域活動
- コメント: 0
関連記事一覧
Vol. 182|チョウの研究家 袴田四郎
Vol. 167|シニア&子どもカフェ”遊” 代表 松本 哲...
Vol. 139|静岡県富士山世界遺産センター 学芸課 准教...
Vol. 187|まかいの牧場 新海 貴志
Vol. 146|造形作家 あしざわ まさひと
Vol. 145|作家・ITライター 大村 あつし
Vol. 147|東京農業大学応用生物科学部 准教授 勝亦 ...
Vol. 115|富士山かぐや姫ミュージアム 館長 木ノ内 ...
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。