Vol. 178|テンペラ画家 匂坂 祐子
時をこえて
その名を聞けば多くの人が思い浮かべることのできる名画、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』や背景に金箔をあしらったルネサンス期の宗教画の数々。それらが描かれた伝統的なテンペラ古典技法を習得し、富士でテンペラ画家として創作活動を続けるのが、匂坂祐子(さぎさかゆうこ)さんだ。
5歳の時、ラファエロの聖母子像を見て画家を志したが、自分の描きたい世界観が、日本の画壇の潮流と相容れなかったために心ない言葉を浴びることもたびたびあったという。しかし、周りの声に葛藤を抱きながらも信念を持って突き進んできたからこそ、奇跡的で運命的な出来事が引き寄せられ、誰にも真似できないユニークな人生が形作られてきたのだ。
匂坂さんの生き方は、彼女の描く絵画のように彩り豊かで、500年経っても色あせないテンペラ画のように普遍的な輝きを放ち、私たちがほかの誰でもない自分だけの人生を進む勇気を与えてくれる。
テンペラ画とはどういうものですか?
日本ではあまり馴染みがないですが、油絵ができる前、ルネサンス期にヨーロッパで生まれた技法で、当時の宗教画や祭壇画はテンペラ画です。発色が良く、時代を経てもほとんど色あせないのも大きな魅力。卵黄を顔料と混ぜて板に描くのですが、私は描きたいものに合わせてこの『黄金背景テンペラ古典技法』と、全卵と油絵の具も併用して描く『油彩テンペラ混合技法』を使い分けます。薄い絵の具を何層にも重ね、まるでベルベットのような光沢と滑らかさやにごりのない色、板に絵の具が吸い込むような質感がとても気に入っています。
初めて知った時、これぞ私の求めていたものだと運命を感じました。それまで、自分の描きたい世界は明確なのに、油彩画や日本画、アクリル画、パステル、水彩などはどれもしっくりこなかったんです。私が一貫して描きたかったのは写実的というより、モチーフの内面や物語性を感じられて、輝くように美しい深みのある色彩のファンタジックな絵画です。インターネットもない時代で地元の画材屋でも材料が手に入らず、週に一度東京のテンペラ画講座に通うことにしたものの、そのうちもっと本格的に勉強したくなり上京を決意。でも当時すでに32歳になっていて、周りからは『上京した子が帰ってくる歳だよ』と止められましたね(笑)。若くして亡くなった母のブティックを経営しながら受注制作していた油絵も売れていたので、それなりに生活は安定していました。それでも、小学校の卒業文集に書いた『歴史に残る画家』の夢が捨てきれない……。無謀とは感じつつも上京し、昼間は仕事をしながらテンペラ画を学び、作品を発表する方法を模索していました。
上京後に初めて、イタリアに本物のテンペラ画を観に行かれたそうですね。
『ロミオとジュリエット』
恩師や友人、姉の協力で、東京の青山と、静岡、富士での個展が決まったのですが、その前に本物を観ておくべきだと思い立ち、絵画鑑賞の旅に出かけました。
バチカンミュージアムには、初期のテンペラ画からあらゆる年代の名画が並び、その色彩の繊細な美しさに圧倒されました。それらは絵画の原点で、時代を超えた美。これこそ私が描きたい世界観なのだとゆるぎない確信を持ったのです。ともすると日本の画壇での評価を気にしたり、誰もが認めるような賞を獲らなければと心が揺れることがあったけれど、この旅でルネサンスの巨匠の絵画を観て、彼らこそが私の生涯の師であり、迷ったときの道標だとはっきりとわかりました。 制作意欲のかたまりのようになって帰国した後、画廊での初展示はすべてテンペラ画にしようと、準備していた数点の油彩をやめ、新作に取りかかりました。夜通し集中して仕上げたのは、天使や妖精、聖書やイタリア旅行にインスピレーションを受けた20点。個展開催の前には、いわゆる王道ではない私の絵に『恥をかくから止めたほうがいい』などと酷評されたこともありました。それでも結果的に、多くの来場者に『きれいな色使いが大好きです』など温かい言葉をかけていただき、作品も売れたことで大きな自信になりました。
個展を終え、次のモチーフを探す中で心を掴まれたのがバレエでした。初めて舞台を観に行った時に、舞台美術の素晴らしさに加え、ある男性バレエダンサーの肉体からあふれる美しさの虜になってしまったのです。芸術家の創作魂の源になる存在を『ミューズ』と呼びますが、バレエダンサーの彼はまさに私にとってのミューズ。その後20年、彼をモチーフに絵を描き続け、その存在を支えに創作活動をしてきました。知人の画家に『君は幸せ者だね。僕はミューズに出会えなくていまだに花ばかり描いているよ』なんて言われるくらい、創作意欲に火をともし続けてくれた彼に出会えたことは本当に幸運でした。
そうしてテンペラ画で自分の道を追求すべく、ヨーロッパへの本格的な留学を決意したのですが、その準備を進めていた矢先、意識不明になる交通事故に遭ってしまったのです。薄れる意識の中で頭に浮かんだのは、描きかけの作品。あの絵が絶筆なんて嫌だ、もっと描きたいと考えていました。首と背骨を圧迫骨折する大けがで、しばらくは手も足も動かせない状態。指が動かない状況になって初めて、絵を描くことが自分の生きがいなんだと再認識しました。回復まで2年、姉に世話になりながら、留学の夢はついえたけれど、いつかテンペラ画の本場で、リハビリ中に描いた絵で個展をやるんだと決心していました。
作品はヨーロッパでも好評だったそうですね。
ローマ法王献上作品『復活―resurrection―』
初めての海外展はモナコのアートフェスティバル、その後ミラノで個展を開催しました。モナコでは日本人の私がヨーロッパ発祥のテンペラ画を描いていること自体にまず驚かれましたね。修復画家は多くても、オリジナルで描く人はほとんどいないそうなんです。作風と色彩感覚を評価していただき、海外展の記念に作品を1点寄贈したいと申し出ると、希望してもほぼ叶わないとされるモナコ王室に所蔵されることになりました。
ミラノでは別便で送った作品が一時行方不明になったりもしましたが、なんとか初日を迎え、多くの人に見てもらうことができました。厳しいともいわれるミラノのアート界ですが、『イタリアのソウルであるテンペラ技法を継承してくれてありがとう』とおっしゃる方もいて、受け入れられていることが嬉しかったですね。
その後恐れ多くも、バチカンのローマ法王に『キリストの復活』を描いたテンペラ画を献上する機会にも恵まれ、テンペラ発祥の地で私の絵が認められたんだと実感しました。個展行脚も成功裏に終わり、テンペラ技法に出会って10年、長年努力してきて良かったと喜びを噛みしめました。これらをきっかけに各国からの招待や個展依頼も増え、今年もいくつかの海外都市で展覧会が控えています。
絵本『プレゼンス』より
誰かの癒しや救いに
なる絵を描いていきたい
国内では今年5月、絵本『プレゼンス ― 世界はすべて愛でつながっている』を出版されました。
絵本はずっと挑戦したかった分野で、4年をかけて完成しました。伝えたいのは『すべてはつながっている』『死は終わりではない』というメッセージ。母を亡くした少女が、母に再会できるよう四つ葉のクローバーを探して7つの世界を天使と旅をするうちに、姿はなくとも母はすぐそばにいると気づくお話です。25歳で突然母を亡くした自分も、こんな風に考えることができたら、当時もう少し早く立ち直ることができたかなという思いもありました。
このテーマが生まれたのは約6年前の病気療養中に経験した、一時的な悟りの境地といわれる『一瞥体験(いちべつたいけん)』がきっかけです。その頃原因不明の動悸や頻脈、全身疲労で起き上がるのもままならない日々が続き、富士の姉の元へ帰っていました。やっと診断がつき治療を始めたものの、症状は一進一退。ベッドの上で哲学書を読みながら生や死について考えていたある日、外を眺めているとそこにあった樹がどんどん大きくなり、幹や葉が自分の体と一体化したのを感じたのです。森羅万象すべてが自分とつながり、大きな安心感が訪れ、同時に死や病気などの不安が消えて、深い幸福感に満たされたんです。
絵本にはこの至福の体験を多くの人に知ってもらい、少しでも幸せを贈れたらとの願いも込めました。絵本としては少し難しい内容ですが、『これは大人のための絵本ですね』や『救われました』という声をいただき、思いが伝わったかなと嬉しく思います。英語講師の姉が英訳を担当してくれ、英語版も同時に出版できたんですよ。
姉の匂坂桂子(さぎさかけいこ)は地元で英語を核とした活動を行なう『ワンダーラビット・クラブ』を主宰し、児童英語教育に携わっているんです。絵を描きたいという一心で故郷を飛び出した私を遠くから見守り、相談に乗り、病気になって帰ってきてからもサポートし続けてくれる姉には頭が上がりません。実はこのインタビューの前に自分の人生を振り返り、姉に改めて感謝を伝えたんですが、『やっと気づいたか』と愛のある返しが(笑)。病気のリハビリ中から、姉に誘われ英語とアートを組み合わせた子ども向けの講座や創作舞台などを一緒にやっています。姉とは性格が正反対でぶつかることもあるけれど、だからこそ凹凸を補い合えるのでしょうね。
今では地域の子どもたちの笑顔が大きなやりがいになっています。世界で認められたいと飛び出した故郷が、今はいちばん居心地がいいんです。今後も子どもたちが伸び伸びと柔らかい頭で考え、想像力を養える場づくりをやっていきたい。そしていつか、テンペラ画と子ども絵本のミュージアムを作りたいんです。子どもから大人まで、創造することの楽しさを共有できる場を、地元・富士で実現させたい。自分の頭で考えられる子は、どこでも生きていけます。それに、アートは思うように好きな色で表現していいもの。迷いながらも自分のやりたいことを貫いてきた私だからこそ、他人と違っていい、自由でいいんだよと伝えられると思っています。
コロナ禍で描くものに変化が生まれたそうですね。
『月下水月観音』
世界が先の見えない状況になる中、医療従事者への感謝やコロナ終息を祈って初めて描いてみたのが疫病退散を象徴する妖怪、アマビエでした。その後も、人々の心を少しでも癒せたらとアマテラスやツキヨミといった神話や、弥勒菩薩や阿修羅、水月観音(すいげつかんのん)などの神仏シリーズを描いています。テンペラ古典技法は、背景に金箔を貼るととても美しい光沢が出るので相性がいいのです。
ルネサンス期の技法が、和の神仏にぴったりというのも不思議ですが、一筆一筆塗り重ねていく過程で思いや物語が込められ、絵を見た時に訴えるものが生まれるんです。描いていくうちに作品の表情がどんどん変わり、自分でも仕上がりが予想できません。まるで誰かに描かせていただいたような感覚があって、描き上げると自分自身も癒されていることに気づくのです。コロナがなければこんな絵を描くことはありませんでしたが、今ではとても大切なモチーフになっています。
また、これまでに事故や病気で何度も死を覚悟した経験から、評価を求めたり自分が描きたい絵を追求するよりも、誰かの助けになる絵を描きたい、見た人に愛を届けたいと思うようになり、アーティストとしてのステージが変化したのを感じます。『人間の心の奥底に光を送ること ― これが芸術家の使命である』とは19世紀の作曲家・シューマンの言葉ですが、私も人生においてこんな使命を果たせたら、これ以上ない幸せだと思っています。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text/Chie Kobayashi
Photography/Kohei Handa
匂坂 祐子
テンペラ画家
1961(昭和36)年8月29日生まれ(60歳)
富士市出身・在住
(取材当時)
さぎさか・ゆうこ / 吉原第一中学校、富士見高校、東海大学短期大学部生活芸術コース卒業。5歳の時、幼稚園で見たラファエロの聖母子像に魅了され、画家を志す。20代後半でルネサンス期の伝統技法であるテンペラ画に出会い、以後多くの作品を制作。その技術と作風はヨーロッパでも認められ、作品がモナコ王室やバチカンのローマ法王所蔵となる。コロナ禍において、神話や神仏をモチーフにしたシリーズに着手。2021年には「すべては愛でつながっている」をテーマにした絵本『プレゼンス』を出版。鑑賞者に空間と物語を感じさせる画風が真骨頂。世界各国の展覧会への出品を続けながら、現在は富士でライブペインティングやテンペラ画ワークショップの開催、英語講師の姉・桂子さんとともに英語とアートを融合させた講座や創作舞台を手がけるなど、子どもたちの創造力を育む活動を行なう。
テンペラ画家 匂坂祐子 オフィシャルWebサイト
取材を終えて 編集長の感想
今回取材した匂坂祐子さんは、Vol.152(2019年8月号)にご登場いただいた英語指導者・匂坂桂子さんの妹さんです。英語とアートを組み合わせた子供向け活動をご姉妹で楽しそうに取り組まれているのを見て、うらやましく思ったのを覚えています。年子だそうです。ご本人たちは「けんかばかりの腐れ縁」とおっしゃいますが、いえいえ、とても仲が良さそうです。
今年の5月に行なわれた絵本『プレゼンス ― 世界はすべて愛でつながっている』出版記念の個展を覗いてみたのですが、展示されていた作品すべてに通じるやさしい世界観に安らぎを感じました。匂坂さんの絵は想像力を刺激するような物語性に溢れているのです。そして、作者の心から直接伝わってくるようなぬくもりがあります。
昔々、テンペラ技法によって描かれてきたヨーロッパの宗教画というのも、きっとそういうものだったのでしょう。絵一枚の中で物語を表現し、文字の読めない人々にも説話が伝えられるように描かれたのが宗教画でした。画家たちにとって絵で表現しようとした世界観(つまりキリスト教)こそが主役で、表現者としての自分は脇役だったのかもしれません。自分のためではなく人のために描きたいと思うようになった、という匂坂さんの言葉の意味が分かるような気がします。
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