Vol. 130|プロサッカー選手 川口 能活
守護神は燃え尽きない
後ろには誰もいない、最後の一線を守り抜くという仕事。プロサッカーのゴールキーパー、まして国民の視線と期待を一身に浴びる日本代表選手ともなれば、その重圧と緊張感には我々の想像を絶するものがあるはずだ。
富士市に生まれ育ち、日本サッカー界の歴史にその名を刻んだ川口能活(かわぐち よしかつ)選手は、オリンピックやワールドカップなどの大舞台で超人的なセーブを連発し、世界を驚かせた。『炎の守護神』と称され、輝かしいキャリアを誇る川口選手は42歳となった現在、Jリーグ・J3のSC相模原で現役としてプレーしている。彼が賞賛され、今なお多くの人々に勇気を与えている理由は、過去の実績だけによるものではない。故郷のグラウンドで汗を流した少年時代から冷めることのない、サッカーに対する情熱と真摯な姿勢は、栄光よりもむしろ困難を前にした時にこそ力を発揮し、自らの道を切り拓いてきたのだ。
若い頃から世界を舞台に戦ってきた川口選手ですが、地元富士市への思いは人一倍強いそうですね。
高校からは寮生活でしたので、実質的に富士市に住んでいたのは中学までですが、今でも年に一度は帰省しています。僕が子どもの頃はBS放送もインターネットもなくて、一流選手のプレーを見る機会も限られていましたが、たまに日本リーグのヤマハの試合が富士総合運動公園で開催されていて、興奮しながら観戦したのをよく覚えています。大人になってからも、ヨーロッパのクラブでプレーしていた頃や、日本代表として世界各地に遠征する中で、故郷があるという幸せは精神的な支えになりました。
決して大げさではなく、富士は大好きな町で、僕の心の中にはいつも富士山があります。実家の玄関を出た時にパッと目に映る富士山、小学校のグラウンドや富士川の河川敷でサッカーをしながら、楽しい時も苦しい時も見守られていた富士山の姿は、僕の原点やサッカーに対する初心を思い出させてくれます。今でも試合の移動などで飛行機に乗ると、『そろそろこの辺かな?』って窓から富士山を探してしまうんですよ(笑)。
最初にサッカーを始めたきっかけは?
当時人気だったアニメ『キャプテン翼』の影響もありますが、直接的には小学3年生の時に3つ年上の兄に勧められたことですね。実はそれ以前にも、母からいろんな習い事を勧められましたが、全部断っていました。
もともと運動神経は良い方で、短距離走も長距離走もソフトボールもバスケットも、スポーツは何をやってもうまくこなせて、たいてい一番になれました。すると自分の中で『なんだ、こんなもんか』と先が見えてしまって、それ以上に頑張ろうという意欲が湧かないんです。また当時から妙に生真面目なところがあって、どうせやるなら練習から本気で取り組めるものじゃないと嫌だなって。
そんな中で出会ったサッカーだけはどうにも難しくて、9歳なりに『これは全力で取り組まないと成し遂げられないぞ』っていう感覚がありました。なにせ最初はリフティングも1回しかできませんでしたからね(笑)。うまくいかない、悔しい、でも練習すれば少しずつ上達する、だからもっと練習してもっと上手になりたい、という感じで、どんどんのめり込んでいきました。
最初からゴールキーパーを希望したわけではなくて、4年生の時のある試合でたまたま選手が不在で、先生からやってみろと指名されたんです。とりあえず試合には出られるし、自分だけユニホームの色が違うから目立つかなって(笑)。その試合に勝ったこともあって、それ以降はそのまま定着しました。ゴールキーパーは特殊なポジションで、他のフィールドプレーヤーとは求められる能力や技術、練習内容も異なります。
最初は上級生にミスを非難されて嫌になることもありましたが、練習してシュートを止められるようになると、楽しくなっていきました。一番の醍醐味はやっぱり、相手のシュートをカッコよく止める瞬間でしたね。また、攻撃してくる相手の足元に果敢に飛び込んでいくのは僕が得意とするスタイルだといわれますが、そういったきわどいプレーにも子どもの頃からあまり恐怖心は抱きませんでした。
そこから次第に頭角を現して、日本を代表するゴールキーパーへと成長していったわけですね。
小学校高学年では富士市選抜チームに所属していましたが、中学からはより高いレベルの環境を求めて、市外の学校に進みました。中学・高校では全国大会にも出場して、高校3年の選手権では優勝も経験できました。
当初は大学に進学するつもりでしたが、高校2年の時に選ばれた19歳以下の日本代表として臨んだアジアユースが大きな転機になりました。ワールドユースという世界大会への出場まであと一歩のところで、準決勝の韓国戦に敗れたんです。悔しくて大泣きしましたが、それと同時に、世界で戦いたい、戦えるはずだという思いが高まりました。
この経験を活かして自分が成長するには、大学ではなくプロを目指すべきだと考えるようになって、ちょうど高校3年の年にJリーグが開幕したこともあって、オファーをもらったいくつかのクラブの中から横浜マリノスを選択しました。当時マリノスには日本代表の正ゴールキーパーの松永成立(まつなが しげたつ)さんがいて、何年かは出場機会を得られない可能性もありましたが、それは覚悟の上で、あえて厳しい環境に身を置いてサッカーに打ち込もうと決意しました。結果的には2年目からレギュラーとして試合に出ることができて、Jリーグの新人王も獲得しましたが、振り返ってみると、僕にとってはどの局面も終わりのないチャレンジの連続なんです。サッカーを習い始めたこと、ゴールキーパーになったこと、マリノスに入ったこと、その後イングランドやデンマークのクラブに移籍したことも、チャレンジというキーワードの延長線上にあります。
今も続いている、9歳の挑戦
ストイックなイメージの強い川口選手ですが、これまでのプロ生活の中で最大の困難は何でしたか?またそれをどのように乗り越えてきましたか?
正直なところ、ずっと苦しいですよ。勝負が全てのプロの世界ですから、自分の思い通りにいかないことは数えきれないほどあって、種類の違う困難がいつも目の前にあるという感じです。ポジション争いで監督に選ばれず試合に出られないとか、チームから戦力外通告を受けたとか、ケガで長期間離脱するとか、試合の勝敗以外にも厳しい状況に立たされることはたくさんあります。
ただ、どんな困難を前にしても変わらないのは、その時々で自分のやるべきことをやるだけということです。心を許せるごく親しい人には愚痴をこぼして思いを吐き出すこともありますが、いざグラウンドに入ってチームとして動くとなれば、黙って自分の仕事にベストを尽くすのみです。ずっとそうしてやってきましたし、現役である限り、これからも変わることはありません。そこで諦めたら、言い訳をしたら、人のせいにしたら、全部終わりですよ。
また、黙ってやるだけなら誰にでもできます。でも大事なのはそのもうひとつ先で、思いを秘めたまま黙って“やり続ける”ことなんです。これはとても難しいことですが、そうすることで、やがて周りの状況や風向きが変わってきた時に、自分の方に流れを引き寄せる力になります。
もちろん個人の努力でできることには限界があります。でも一生懸命やっている人は、どこかで誰かが見てくれています。ギリギリのところで評価してもらえたり、手を差し伸べてもらえたり、僕はそんな経験を何度もしてきました。その人々がいてくれたからこそ、ここまで続けることができたと思っています。
経験豊富なベテラン選手としては、後進の育成や指導者としての働きを求められることもありますか?
年齢や経験を重ねる中で、プレーしながら後輩たちに何かを伝えよう、教えようと意識した時期もありましたが、やっぱりそれは自分らしくないし、何か違うという思いに至りました。誤解を恐れずに言えば、教えるのは監督やコーチの仕事で、僕がそれをやりだしたら、その瞬間からプレーヤーとしての『劣化』が始まるような気がするんです。
今では親子ほど年の離れた選手と一緒にプレーすることもあって、もちろん求められればアドバイスはしますし、チームの連携や戦術という点では選手間のコミュニケーションは重要ですが、僕の方から練習の手を休めて積極的にあれこれ教えようとはしていません。若手だろうとベテランだろうと、純粋にプレーヤーとして切磋琢磨して、ポジションを勝ち取って試合に出るんだという姿勢でなければ、選手である意味がありませんし、その姿を見せること自体が、若い選手たちへのメッセージになるのかなと思います。
現在のクラブでも、今シーズンの序盤は試合に出ることができず、自分は何のためにここにいるのかという葛藤もありました。そんな時、自分が自分らしさを最も発揮できるのはどこだろうと考えてみると、やっぱりそれは試合で立つゴールの前なんです。だったらそのために今日どんなトレーニングをするのか、何を食べるのか、どういう気持ちでいるべきなのかということが見えてきます。プロである以上、トップでありたいというプライドは常に胸にあります。サッカーが上手くなりたいという思いも、富士市で過ごした小学校時代のままですよ。
42歳になって、Jリーグでもトップリーグから二つ下のカテゴリーのJ3でプレーする中で、僕のサッカー選手としてのキャリアも終盤であることは充分自覚しています。あと何年現役を続けるのかと聞かれることもありますけど、先のことは分かりません。自分が思う以上に長く続けられるかもしれないし、短いかもしれない。だからこそ、このままじゃ終われないという強い思いもあります。長い人生の中で自分自身が納得して次のステージに進むためにも、現役としての『今』に全力を注ぐ人間でありたいんです。
【取材・撮影協力】
SC相模原/ノジマステラ神奈川相模原/株式会社スポーツコンサルティングジャパン/日刊スポーツ新聞社静岡支局(順不同)
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Photography/Kohei Handa
川口 能活
プロサッカー選手
1975(昭和50)年8月15日生まれ
富士市天間出身
(取材当時)
SC相模原 公式ウェブサイト
https://www.scsagamihara.com/
かわぐち・よしかつ / 天間小3年生の9歳でサッカーを始め、天間小サッカースポーツ少年団に所属。東海大学第一中学校(現・東海大学付属静岡翔洋中学校)、清水商業高校(現・清水桜が丘高校)では幾度となく全国大会を経験し、高校3年時の全国高等学校サッカー選手権大会では全国制覇を果たす。1994年にJリーグ横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に加入。翌年には新人王を獲得し、名実ともにトッププレーヤーとなる。その後日本人ゴールキーパーとして史上初の欧州移籍を果たし、イングランド2部のポーツマスFC(2001~2003年)、デンマークリーグのFCノアシェラン(2003~2005年)に在籍。2005年よりJリーグに復帰し、ジュビロ磐田で9年間プレー。2014年より2年間はJ2の岐阜FCに在籍し、2016年からはJ3のSC相模原に移籍。現在に至る。日本代表としても長く第一線で活躍し、U-23日本代表として出場した1996年のアトランタオリンピックでは、ブラジルを完封で破る大金星をあげた『マイアミの奇跡』の立役者として脚光を浴びた。その後FIFAワールドカップに4度選出、AFCアジアカップ2連覇など、日本サッカー界の歴史に数々の足跡を残す。日本代表での国際Aマッチ出場数116試合は歴代第3位を誇る。プライベートでは2005年に結婚し、現在は2児の父。
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