Vol. 112|日本画家 岩山 義重

天性の負けず嫌い

得意とする分野で最高を目指したいという衝動は、人間の文化的営みの原動力である。自分で選んだ自分の道を切り拓く。自分と徹底的に向き合い、さらなる高みを目指す。とりわけ芸術の世界においては、作品の制作過程は作家の自己表現であると同時に、自己研鑽の場でもある。「好きこそ物の上手なれ」というが、それに加えて「やるべきこと」に一生懸命取り組んだ人が功を成し、真の幸福感を得られるのかもしれない。

富士市出身の日本画家・岩山義重さんも、そんな真正直な生き方を貫いてきた人物だ。端正で落ち着いた雰囲気の岩山さんだが、その作品に妥協はない。足し算ばかりではなく、むしろ簡素で雑味のない表現を志向している点も興味深い。それでいて、鑑賞者のニーズを謙虚に探り当てようとするバランス感覚や、話してみると意外なほど気さくでユーモアのある人間性も、彼の大きな魅力だ。必然的に濃密で笑いの絶えない、長時間にわたるインタビューとなった。

「さくら」60×160cm 2006年

始まりは、勘違いと誇らしさ

絵画や芸術との出会いについてお聞かせください。

子どもの頃はいろんな習いごとに通いましたが、当時は絵画よりもむしろ書道の方が好きでした。ただ、学校の授業で絵を描くとみんなに褒められるので、自分は絵がうまいらしいという感覚はありました。小学1年の時、他の授業中に僕だけコンクールに出すからと先生の隣で絵を描いていたということがありました。時間が足りなくて先生が仕方なく描かせていただけなんだと思うんですが、自分だけ特別扱いされたようで嬉しかったのを覚えています。あの誇らしい原体験がなかったら、もしかすると今の僕はなかったかもしれません。

中学の頃にも印象的なことがあって、ある時美術の先生が急に「岩山はモノになる」と言ったんです。美術部員でもない僕の名前が挙がったことを不思議に感じましたが、その時はレモンの絵を描くのに、僕だけが緑の絵具を使っていたんです。レモンをじっと観察していると緑色にも見えてきて、「よく考えたらこのレモンも熱す前は緑だったんだよな」と思って、黄色の下地に緑を塗ったんです。そこを先生は見ていたみたいです。

そこから名門である武蔵野美術大学へ進学するまでの経緯は?

中学生の頃はいわゆる反抗期で、何事に対しても斜に構えていましたが、高校受験の直前になぜか絵ではなく勉強に目覚めて、高校に入ってからも勉強ばかりしていました。勉強を始めるのが遅かったことを後悔していたので、高校ではとにかく勉強して、学校で一番になって、いい大学に入るんだと。でもそのうち限界を感じて、勉強では一番になれないと考えるようになりました。

そんな時、ふと絵のことを思い出して、「絵を描くことなら頑張れば一番になれるかも」って。基本的に何事も負けず嫌いなんです。美術大学という存在を知ったのもその頃で、高校2年の夏から地元の美術教室に通い始めました。見学に行った時、壁に並んでいる絵を見て、「なんだ、僕の方がうまいじゃないか」と思ったんですが、いざ描いてみて、他の生徒の絵と並べられると、明らかに僕の絵が一番下手なんです(笑)。いきなり挫折感を味わいましたが、逆にそこから一気に絵を描くことが楽しくなりました。それまでまともに学んだことがないので、絵を描く時の姿勢や鉛筆の持ち方など、初歩的なこともすべてが新鮮でした。

それでも美大に合格するには準備期間が足りず、東京の美大受験予備校で浪人生活を送りました。全国から美大を目指す実力者が集まる都内でも屈指の予備校ということもあって、最初の講評で僕は約40人中の最下位だったんです。「またここからのスタートか…」と思いましたけど(笑)。でもそこからが負けず嫌いの本領発揮で、帰宅後もひたすら絵を描き続けて、1年後には全体で1位の評価をもらうまでになりました。その時はあまりの嬉しさに、トイレに入って一人で「やったぞー!」って叫びましたよ(笑)。

大学時代は日本画や油絵ではなく、視覚伝達デザインという分野を専攻したそうですね。

浪人生の頃は家電などの工業製品デザイナーになりたいと考えていました。自分がデザインしたものが日本中に広まるといいなと思って。そこで将来的な仕事を選ぶ上でも一番裾野の広い視覚伝達デザイン学科に進学しました。ところが大学に入ってみると、周りの学生はほとんど絵を描かないんです。ちょうどグラフィックデザインソフトが出始めた時期で、みんなデジタル出力のポスターを作ったり、作品そのものよりもそれを売り込むプレゼンテーションの話術を磨いたりという感じで。絵を描きたかった僕には違和感があって、なんとなくドロップアウトしてしまったんです。

今にして思えば、デザイン学科の学生としては彼らの考え方が正しかったと思いますが、当時はそう思えず、一人でひたすら絵を描いていましたね。結局デザイナーとしての就職活動はせず、卒業後は画家になるための下準備として美大受験予備校で講師をしながら制作を続けて、たまに知り合いから入るTシャツのデザインや洋服店に飾るレンタル絵画を描く仕事などをしていました。

そしてプロの画家へと転身していくわけですね。

デザインや注文絵画の仕事では、どうしても自分の作品の上に制約やフィルターが入るので、モヤモヤとした気持ちが晴れませんでした。そのうちに混じり気なしの自分の作品を表現したい、個展を開きたいと思うようになりました。意を決して2001年に初の個展を東京・銀座で開催したんですが、おかげさまで作品は完売しました。その後は海外での活動も含めて、定期的に個展を開催しています。

振り返ってみると、デザイン学料で学んだことが自分の強みにもなっていて、常にお客さんの立場で自分の作品を眺めたり、効果的に演出したりする感覚が養われたと思います。描いたら描きっぱなしではなく、額装や展示用のプレートも自分で用意して、会場のレイアウトにも細心の注意を払います。また絵を購入していただいたお客さんには、設置用の工具を携えて直接お届けに行くようにしています。設置場所をお客さんと相談しながら、せっかくなら一番いい環境で絵を味わってもらいたいという思いからです。画家がそこまでやるのは珍しいですが、仕事として最後まできちんと遂行したいんです。

一般的な芸術家のイメージって、案外古いままだと思います。髪の毛がポザボサで、破天荒で、俗にいう、呑む・打つ・買うは当たり前みたいな(笑)。でも実際にいい仕事をしている画家は、きちんとした社会性と礼節があって、地味だけど若実に日々の仕事をこなしている、研究者のような印象の人が大半です。そもそも二日酔いで絵なんか絶対に描けませんからね(笑)。

「開」33×24cm 2010年

「開」33×24cm 2010年

究極は、
単純で奥が深いもの

作品の題材としてはどのようなものが多いですか?

僕の絵の多くは抽象画ではなく具象画なので、何かしら形のあるものが対象になりますが、スケッチや写真を使うことはほとんどなくて、たいてい頭の中の記憶やイメージを頼りに描きます。その中でも桜や仏像などは好きな素材ですね。桜はイメージする時も描く時も、腑に落ちるというか、自分自身が納得できるんです。仏画は表現する上での自由度が比較的高いので、自ら生み出した感がありますね。ちなみに、髪型のせいでよく間違われるんですが、僕はお坊さんではありませんよ(笑)。制作期間が3ヵ月とかになるので、自分が好きなものじゃないと途中で描くのが嫌になってしまうんですよ。

でも画家として最終的に目指したいもの、ゴールは決まっているんです。それは、単純で奥が深いものです。極端にいうと、パッと一筆描いたら出来上がり、みたいなものが理想です。画家に実力さえあれば、それでも十分に説得力のある、人に感動を与える絵になるはずだと思っています。まず先に表現したいイメージや気に入った言葉が頭の中にあって、それを形にするための素材を常に探し歩いているという感じです。着想そのものは一瞬ですが、そこに至るまでには悶々といろんなことを考えて、お風呂や本屋などでリラックスしている時にふと浮かんでくることが多いです。その場ですぐに言葉としてメモに残しておいて、後でそのイメージを思い出しながら描くというスタイルです。

「大輪」90×90cm 2009年

「友」45.5×37.9cm 2006年

日本画という分野を選んだ理由は?

日本画の定義には幅がありますが、基本的には画材の違いで洋画と区別されます。膠を接着剤として岩絵具を和紙などに定着させるんですが、実は僕、日本画を誰かに教わったことはなくて、すべて独学なんです。岩絵具は扱いが大変で、ムラなく塗ることも別の色を塗り重ねることも難しいんですが、それでもなぜ日本画を選んだかというと、単純に色がきれいだからです。アクリルも油絵も、あらゆる画材を試しましたが、どうしても発色や光沢感がしっくり来なくて、最後に行き着いたのが日本画でした。

難しい画材だけに塗る順番など事前の段取りが非常に重要になります。僕の場合、描き始める時点で頭の中には完成したイメージが出来上がっているので、そういう意味でも、白い紙の前に座った時点ですでに勝負はついているといえますね。

地元である富士市との関わりは?

作品として富士山を描くことはあります。富士市で生まれ育ってずっと眺めてきただけに、富士山をうまく描けたかどうかの判断には自負を持っています。いずれは何かの形で故郷に恩返しをできればという気持ちもありますが、まだまだ画家として半人前なので、まずは自分の仕事を積み重ねていくことが大事だと思います。多くの皆さんに助けられて、作品を買って応援してもらって、これまでなんとか続けてくることができました。そのことに感謝しながら、これからも真摯な気持ちで取り組んでいきたいです。

今は間近に迫った個展の準備中で、ぜひ一人でも多くの方に見ていただきたいです。僕の個展はそれぞれの絵が別々の作家の作品みたいだねと、よく言われます。それは狙い通りでもあって、お客さんが飽きないようにいろんなものを見てほしいので、統一テーマやサブタイトルもあえてつけません。個展全体をトータルで考えて、細かな技術を見せる作品、誰が見ても綺麗だと感じられる作品、自分が描きたいものを衝動に任せて思いっきり描いた作品など、バランスよく展示できるように意識しています。僕の作品に限らす、絵画の鑑賞は敷居が高いと感じている人もいると思いますが、専門的な知識なんて一切必要ありませんから、好きなように、感じるままに見てもらえればと思います。

「七天女天空舞図(紘神 奥の院天井画)」540×540cm 2005年

「人民は森の鹿のようだった」41×32cm 2014年

最後に、表現者として一番心がけていることは?

ハイブリッドな人間、つまり、異種のものを組み合わせた存在でありたいということは常に考えています。子どもの頃に慣れ親しんだ書道や学生時代に学んだデザインの手法など、現在の僕の人間性や表現の中にはさまざまな要索が混ざり合っています。表現者は常に新しい刺激や融合を求めていく姿勢が必要です。2年前から茶道を習っているんですが、着物を着ること、古きを知ること、心を整えることなど、画家としても価値のある学びがたくさん詰まっているので、楽しくて仕方がありません。

また、心・技・体という言葉がありますが、技や体で表現できる絵は年齢的にいつかは限界を迎えるとしても、心は伸ばし続けることができるはずです。長期的には『心で描く絵』、つまり年齢や経験を重ねたことによる渋味やコクのようなものを強みにしていきたいです。うまい絵といい絵があるとすれば、僕の場合は後者だと思いますし、絵描きの真骨頂とは何ぞやという問いを自らに課して、その答えをずっと追い求めていきたいですね。

「アマング・フラワ(SIDARE IV)」60×160cm 2015年 (第7回個展に出品予定)

 

Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Cover Photo/Kohei Handa

岩山 義重
日本画家

1973(昭和48)年2月4日生まれ
富士市出身・神奈川県秦野市在住
(取材当時)

いわやま・よししげ/富士宮北高在学中に美術の道を志し、富士美術研究所に通い始める。美大受験予備校での浪人生活を経て武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に進学。卒業後、美大受験予備校講師や各種デザインの仕事をしながら絵画制作を続け、2001年に東京・銀座のギャラリーハウスにて初の個展を開催。2003年にフランス・パリのギャラリーグランパリにて海外初個展を開催し、2005年には1年間の制作期間を経て富士市松岡の紘神 奥の院天井画を完成させるなど活躍の場を広げ、現在まで約2年に一度のペースで個展を開催している。2016年5月には銀座・藤屋画廊にて第7回個展を開催予定。

岩山義重公式ウェブサイト
http://yoshishigeiwayama.wix.com/home

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