身体で覚えた謡(うた)
『鶴亀』の謡本
甫の一歩 第13回
気がつくと、目の前には揚幕があります。私は能装束を身にまとい、間もなく幕があがることを知っています。しかし、私は私自身が何の役を勤めるのかわかりません。これから始まる演目すらも知りません。舞台へ出ていったところで何を謡えばよいのか、何を舞えばよいのか、何一つわからないのです。絶望、恐怖、焦燥。さまざまな負の感情が自らを襲いますが、もうあとには引けず、舞台が始まることは避けられません……。
これは私が過去に幾度となく見てきた、夢の話です。この夢を見るタイミングは決まっていて、舞台のシテ(主役)が近づくと、見ることが多いです。緊張からくるのでしょうか、原因はわかりませんが、この夢を見た後は汗をたくさんかいて、嫌な目覚め方をします。ちなみに、幕が上がった瞬間に目覚めるので、夢のその先がどうなるかはわかりません。
能の一つの公演は一度きり。同じ演目を連続で演じることはありませんので、正真正銘の一発勝負です。このようなことから、「一期一会」の芸能ともいわれます。その舞台に臨む我々能楽師は、自らを極限の精神状態に追い詰め、削ぎ落として、舞台上での役に没頭します。
しかしどんなに稽古を重ねても、謡を謡い間違える不安感はつきまといます。型(所作、動き)を間違えることはおよそプロではあり得ませんが、謡の文句が若干違ってしまうことは少なからず起こり得ることです。ですが言い間違えたとしても、同じような意味合いの言葉を謡うことがほとんどで、見ている方はおそらく気づかないことでしょう。それよりもっとひどい状態が「絶句」といいます。頭が完全に真っ白になり何の謡も口から出てこなくなってしまうことです。特に稀曲と呼ばれる上演機会の少ない演目では、絶句してしまうことへの不安が強まります。
私が能を教えている生徒さんから、「先生は何曲くらい覚えてらっしゃるのですか?」という質問をよくいただきます。答えは、「完璧に暗記している曲は一つくらいしかない」です。意外に思われるかもしれませんが、能の謡本を丸々一冊覚えるような稽古は普段しません。というのも能は分業制ですので、自分たちが謡わない部分に関しては何となくの意味で覚えているだけで、一語一句を正確に暗記する必要がないからです。
そんな中、「この曲だけはどんな時も完璧に謡える」と私が自信を持って言えるほぼ唯一の曲が、『鶴亀』という演目です。謡としては極端に短く、稽古を始める際の一曲目に選ばれることが多い演目です。能の初心者にも馴染み深く、演目がおめでたい内容でもあるので、多くの人が楽しめる曲です。
この『鶴亀』だけは、お弟子さんに教えるたびに何回も何回も謡いますので、忘れることなくどんな時でも間違えずに謡えます。謡が身体にしみ込んでいるのでしょう。
どんな演目でもとにかく稽古を重ねれば、本番に頭が真っ白になったとしても、身体が勝手に謡を謡っています。頭で覚えるのではなく、身体に謡を叩き込む。稽古はしてしすぎることはありません。
田崎 甫
宝生流能楽師
たざき はじめ/1988年生まれ。宝生流能楽師・田崎隆三の養嫡子。東京藝術大学音楽学部邦楽科を卒業後、宝生流第二十代宗家・宝生和英氏の内弟子となり、2018年に独立。国内外での公演やワークショップにも多数参加し、富士・富士宮でもサロンや能楽体験講座を開催している。
田崎甫公式Web「能への一歩」
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。