ゆるやかな時間に花を知る

甫の一歩 第5回

紅葉も徐々に色づき、秋の気配を感じる今日このごろです。今回は、初秋の夕暮れの雰囲気を味わうことができる『半蔀(はしとみ)』という演目と、その中に出てくる「草木国土悉皆成仏」という言葉についてお話しします。

まずは能『半蔀』のあらすじです。夏のあいだ、仏に手向けていた花々を供養する立花供養を行う僧のもとに、若い女が来て夕顔の花を捧げます。女は昔、五条の辺りに住んでいたと言い残し、姿を消します。女の言葉を頼りに僧が五条辺りに来てみると、半蔀戸を下ろした家から夕顔の女の霊が現れます。光源氏と深い契りを交わした儚い時の想いを回顧し、優雅に舞を舞い、やがて半蔀戸の奥に消え失せる、というストーリーです。

この僧が花々を供養するときに、冒頭に書いた「草木国土悉皆成仏」と唱えますが、皆さんはこの言葉をご存知でしょうか。「そうもくこくどしっかいじょうぶつ」と読みます。これは仏教の教えなのですが、もともとの仏教の経典にはなく、日本で独自に発達した仏教思想です。草木国土=人間だけでなく、他の動物も植物も山や川も、悉皆=ことごとく、成仏=仏となる、という意味です。草木を人間と同じく心あるものと捉え、成仏するという考え方は、非常に日本人らしい感性で、私はこの言葉がとても好きです。

『半蔀』の主人公である源氏物語の夕顔の女と光源氏との恋。夕刻に花開き、朝には萎れてしまう夕顔の花。ふたつの夕顔のイメージが重なり、儚く、悲しく、清楚な舞に昇華します。観ている者は、舞を舞うのが夕顔の女の亡霊なのか、夕顔の花の精なのか曖昧になり、「そのまま夢とぞなりにける」と謡われ、すべては僧の夢だったと結び、終曲となります。

『半蔀』より

光源氏に花を所望された夕顔の女が、扇に花を載せて差し出す場面(『半蔀』より)

芸術の秋とはいうものの、忙しい時間を送る現代人にはなかなかゆっくりと芸術鑑賞を楽しむ時間がないのかもしれません。だからこそ、能は今の時代に最も必要な芸能だと私は考えています。なぜなら、能は人の心にある内在的な時間を延ばすことができるからです。多様なエンターテイメントは、そのほとんどが心を大きく刺激するように作られます。刺激を強くするに従い、人の心は鈍くなります。ですが能は発する刺激がわずかなために、自ら感度を上げて観る必要があります。五感を研ぎ澄まし、集中して観ると、普段とは違う時間軸で流れる能の世界に入り込み、無防備な素の自分と対面できるでしょう。草木を慈しみ万物の心に思いを馳せ、ありのままの自分と対話する。これも能楽が持つ芸能の要素のひとつです。忙しい社会の歩みからふと足を止めたくなるときに、能をご覧になってはいかがでしょうか。

田崎甫プロフィール

田崎 甫

宝生流能楽師
たざき はじめ/1988年生まれ。宝生流能楽師・田崎隆三の養嫡子。東京藝術大学音楽学部邦楽科を卒業後、宝生流第二十代宗家・宝生和英氏の内弟子となり、2018年に独立。国内外での公演やワークショップにも多数参加し、富士・富士宮でもサロンや能楽体験講座を開催している。
田崎甫公式Web「能への一歩」

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