Vol. 118|蕎麦職人 小林 孝
初心十三年
数多くの蕎麦通を集め、唸らせてきた富士市中野の名店「蕎麦切りこばやし」が、今年7月末をもって13年間の歴史に幕を下ろした。 この店を営んできた小林孝さんは、もはや蕎麦屋の店主という肩書だけでは表現できないほどの研究家であり、求道者である。静かな住宅地にある店の前に県外ナンバーの車が列をなすほどの人気を博した蕎麦作りの陰には、小林さんの飽くなき探求心があった。
最高の蕎麦を作り続けるという信念は自らの身体にドクターストップがかかるまでの負担を強いることにもなり、同店は惜しまれつつも閉店となったが、小林さんの蕎麦への情熱はいまだ冷める気配がない。蕎麦に人生を賭けた物語が小休止を経て新章へと移る幕間ならではの、安堵と意欲が入り混じったインタビューとなった。
「蕎麦屋なんてやるもんじゃない」と言われて、燃えた
まずは13年間本当にお疲れ様でした。現在の率直な心境をお聞かせください。
正直な気持ちとしてはもう少し店を続けたかったんですけど、力仕事と長時間労働という蕎麦屋の宿命か、腰を痛めて継続的な営業が難しくなってしまいました。朝3時に起きる生活をずっと続けてきましたからね。8時頃までに蕎麦を挽いて、練って、打って、切って、そこから薬味を準備するのに1時間、かけ汁を取ってその他の段取りをして、10時くらいにようやく開店の準備が整います。行儀が悪いですが朝食は立ったままです。普通のサラリーマンならもう帰ってもいいくらいに仕事をしたところで、その日の営業が始まるという感じです。お客さんの多い土日はもっと忙しくて、ほぼ一日中動きっぱなしでした。去年の暮れには年越し蕎麦の仕込みで30時間近く蕎麦を打っていました。そりゃ身体も壊しますよね(笑)。
それでも閉店を告知して以降、ありがたいことにものすごい数のお客さんが来てくれて、最後の10日間あたりはもう気力だけで、腰の痛みも忘れてしまうくらいでした。最終日には一人でも多くのお客さんに食べてもらおうと、夜中の1時からいつもの倍の量の蕎麦を打ったんですが、朝すべての蕎麦を打ち終わった時、涙がボロボロ落ちてきましてね。でもそれは店を閉める悲しさや寂しさというよりも、13年間蕎麦一筋でやってこられた感謝と充実感の涙でした。
小林さんと蕎麦との出会いは?
きっかけは偶然でした。25歳頃のある時、芝川町(現富士宮市)の『柚野いづみ加工所』という地域の産物を扱う直売所で、観光がてら蕎麦打ち体験をしてみたんです。地元のおばあちゃんたちが教えてくれる田舎蕎麦で、生まれて初めて自分で打った蕎麦は切り方も茹で方も当然ながら下手くそ、つゆも市販のものでした。でもその時『蕎麦ってこんなに美味しかったのか!』と感激したんです。それからは趣味だったバイクのツーリングを兼ねて週末のたびにあちこちの店を食べ歩いて回りました。そうするうちに、いつか自分で蕎表の店をやってみたいという気持ちが高まっていったんです。
夢が現実的な目標として固まったのは、山梨県長坂町(現北杜市)にある『翁』という店の蕎麦を食べた時です。当時の店主は高橋邦弘さんという、蕎麦の世界では知らない人はいないほどの達人で、後の話になりますが2008年の洞爺湖サミットでは各国要人の前で蕎麦打ちを披露した経歴を持つ人物です。私にとっては今でも神様のような存在ですが、その高橋さんの蕎麦を食べた時、これこそが本当のプロの仕事かと衝撃を受けました。高橋さんの蕎麦は味わいや食感が秀逸であることはもちろん、すべての作業に無駄がなく、蕎麦を切る姿はまるで蝶が舞うようでした。最高の蕎麦を追い求めるあまり、自ら畑で蕎麦の栽培までやってしまうんですから、そのこだわりは尋常ではありませんよね。
そこから開店に至るまでの経緯や仕事は?
社会に出てから25年間は電気の制盤などを作る工場に勤務していて、蕎麦とはまったく無縁の仕事をしていました。蕎麦屋の開業を決意した40代の初めに工場を辞めて、4年半ほど各地の蕎麦屋で修行をしていましたが、見切り発車で動き出したので開業にお金がかかることをすっかり甘く見ていましてね。それで今度は資金調達のために、前職の経験を活かしながら自営業として独立する選択をしました。全国の清掃工場で改装後の試運転を担当する電気工事士として約5年間働いて、資金は貯まりましたが、忙しい時は朝から深夜まで続くような大変な仕事でした。しかも半年から1年間ずっと現場に張りついて、作業が一段落したらまた別の市町に行くという生活だったので、その頃は確定申告の時期しか富土市にいませんでしたよ(笑)。
蕎麦屋を開こうと決意してからすでに10年が過ぎていましたが、先ほど触れた『翁』の高橋さんとも何度か通ううちにお話をさせてもらう機会があって、自分の夢を熱く語ったところ、意外な答えが返ってきました。『蕎麦なんて安易にやるもんじゃない、やめておきなさい』と。高橋さんは蕎麦の難しさや店を続けることの大変さを諭してくださったと思うんですが、こちらとしてはもう火がついちゃってるもんだから、逆に表への思いはどんどん強くなっていきました。そういう時は誰に何を言われようと自分は絶対にやってみせるという、訳の分からない自信があるんですよね(笑)。
ところが困ったことに、資金調達で蕎麦打ちから離れていた5年間でそれ以前の修行で身につけたはずの技術を身体が忘れてしまったんです。特に蕎麦粉の粒子が粗いままつなげて麺にする粗挽きという技術は難しくて、自分の店では粗挽き満麦を商品にするつもりだったので、これには焦りました。開業前の1年間くらいはとにかく初心に戻らなきゃいけないと思って、店舗が決まってからも勉強のために知り合いの蕎麦屋を無給で手伝ったり、自分の蕎麦を研究したりしていましたが、お客さんに出せる相挽き誌麦を打てるようになったのは『蕎麦切りこばやし』開業の1週間前でした。
満を持して始めたお店は当初から順風満帆でしたか?
とんでもない。特に最初の2年くらいは悩みに悩んで、寝る間もないほど試行錯誤を続ける毎日でした。特に粗挽き蕎麦に関しては、いつやめようかと自信を失いかけました。もともと富士・富士宮はキメの細かいツルッとした蕎麦を甘めのつゆで食べるという風土があるんです。その中で20年30年と続いている名店もたくさんありますからね。私のやろうとしていることはその真逆だったので、最初は粗挽きなんて見向きもされませんでしたし、辛めに仕上げたつゆにもいきなり蕎麦湯を入れてしまうお客さんがいたりして、がっかりしたこともあります。
流れが変わったのは、知人に譲ってもらった石臼を使って自家製粉した粗挽き蕎麦を開発してからです。それぞれの挽き方や太さによって『香味』『風味』『雅』と銘打ちました。その蕎麦を気に入ってくれたお客さんがリビーターになって、グルメ本やテレビの取材が入って、そこからまたお客さんが増えていくという好循環が生まれました。つゆだけじゃなく塩をつけて食べるというスタイルも目を引いたのか、口コミなどでも急に広まって、県外からもお客さんが来てくれるようになりました。他にはない蕎麦で勝負しなきゃダメだという信念でずっとやってきましたが、ついに粗挽きが受け入れられた時は『やった!自分の目に狂いはなかった!』と感無量でした。まさに継続は力なりですね。
粉と水だけのシンプルな料理、
だから難しい
小林さんが打つ蕎麦のポイントは?
蕎麦というのはシンプルなものだけに、あまり細工をしたくないという気持ちが根底にあります。その上で質を高めていくには、やはりいい素材をいい状態で提供するという点に尽きます。
たとえば、仕入れる蕎麦の産地は頻繁に変えます。新蕎麦は涼しい北海道産から南下して一大産地の会津や茨城、福井などに移っていきますが、当然ながら産地によって味や香りは違います。その年の気候や環境によっても全然違うものができるので、惰性で扱うわけにはいきません。私の場合は仕入れ先の業者に玄蕎麦(殻がついた状態の麦の実)の中に含まれる水分量を毎回測ってもらって、真空パックで納品してもらうなど、とことん突き詰めていきました。蕎麦粉を練る段階でも気温と湿度は大きく影響するので、梅雨時と冬場では同じ蕎麦でも加水量は3〜4%変えますし、一律にこうすればいいという教科書なんてないんです。
正直なところ、蕎麦を打つだけなら小学生にだってできますよ。でもプロとしてやるなら、素材にも道具にも最大限こだわって、自分がいいと思うものを追求したいし、またそうすることでお客さんも通ってくれるようになると思うんです。おかげで税理士には原価が高すぎるって怒られっぱなしでしたけどね(笑)。
今も、道半ば
これからも蕎麦との関わりは続けていくそうですね。
腰が痛くて店を閉めようかと悩んでいた頃は先のことが考えられず悶々としていましたが、今は一段落してまた前を向き始めたところです。診断によると2〜3ヵ月静養すれば回復のめども立つだろうということなので、まずはゆっくり休んでから今後の動きを決めたいなと。でもこのままリタイアはしたくないんでね。店を構えるのは難しくても、いずれは蕎麦打ちの教室や体験を行う工房のようなものを新たに立ち上げたいと思っています。まだまだ自分の蕎麦を高めていきたいという思いもありますし、それを自分だけのものにするんじゃなくて、この地域で頑張っている他の蕎麦屋や、これから蕎麦を学びたいという人にもどんどん伝えていきたいです。
閉店にあたっては『小林さんの蕎麦が食べられなくなるのが寂しいよ』と言ってくれる常連さんもいるんですが、『だったら教えてやるから自分で打って食べなよ』って答えています(笑)。 とはいえ、ひとつの節目としてこれまでの年月を振り返ってみると、妻や家族をはじめとして、いろんな人に助けられたなぁと、しみじみ感じます。どこにでもある蕎麦屋が一軒なくなるだけだと思っていたんですが、馴染みのお客さんが身体を心配して連絡をくれたり、箸袋の裏に労いのメッセージを残してくれたり、想像以上の反響がありました。自分の蕎麦を求めてくれる人がこんなにもいたのかと、胸がいっぱいになりました。小学4年生の孫娘が中心になって、お品書きの裏に寄せ書きをしてくれたんですよ。『じいじのがんばっているすがたはかがやいていたよ』って。これには泣けましたね。どこまで行っても完成しない、奥の深い蕎麦の世界ですが、がむしゃらにやってきたこの13年間はこれまでの人生で一番幸せな時間だったと思っています。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Cover Photo/Kohei Handa
小林 孝
蕎麦職人/『蕎麦切りこばやし』元店主
1948(昭和23)年3月5日生まれ(68歳)
富士市出身・在住
(取材当時)
こばやし・たかし/20代の頃に参加した麦打ち体験をきっかけに、蕎麦の世界に魅了され、各地の名店を食べ歩くようになる。電気の制盤などを製造する工場に25年間勤務した後、蕎麦屋開業を決意し、約4年半にわたり各地の店で蕎麦打ちの修行に励む。開業の資金調達のため、清掃工場の試運転に携わる電気工事士として約5年間全国を巡り、55歳を迎えた2003年、富士市中野に蕎麦専門店「蕎麦切りこばやし」を開業。自家製粉による粗挽きを特徴とする独特な食感と風味が話題となり、遠方からも常連客を集める人気店となる。妻・八重子さんをはじめ、家族の理解と協力を得て順調な軌道に乗っていたが、過酷な業務から腰を痛め、2016年7月末をもって閉店となる。今後は静養期間を経て、自身の蕎麦打ち技術をさらに深めつつ、後進の育成や蕎麦の魅力を広く伝える拠点作りに取り組む予定。
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