Vol.149 |ボーイスカウト・野外活動家 髙村 賢一
生き抜け、青少年!
お揃いの制服・制帽・スカーフ姿で、募金などの社会奉仕やキャンプなどの野外活動をする元気のいい子どもたち。さまざまな危険を予測し、安全を第一に考えながらも、子どもたちが多種多様な経験ができるようにプログラムを考える指導者たち。ボーイスカウトの活動は、自力で、そして仲間と協力して社会で生きていく力を育てる。
指導者としてこの活動に積極的に携わっている髙村賢一(たかむら けんいち)さんは、自然を敬い、仲間と苦楽を共にしながら成長する子どもたちを半世紀にわたって見守り続けている。そして、子どもといっしょに活動しながら、自身も「まだまだ勉強。やりたいことがどんどん出てくる」と少年のように瞳を輝かせる。退職しても、野外活動は生涯現役。今後もますます精力的に活動を広げていく。
髙村さんはいつから野外活動をしていたのですか?
子どもの頃からよく外で遊んでいました。浮島ヶ原まで出かけて沼川(ぬまがわ)で遊んだり、海岸で松ぼっくりを集めて火を燃やし、芋を焼いて食べたりしました。中学時代は陸上部に所属して、1964年の東京オリンピック開催で聖火リレーが東海道を通った時には、僕も学校代表として聖火ランナーといっしょに走ったんです。高校も陸上部でしたが、休日などには愛鷹山を一人で縦走しました。高校卒業後は富士市内の製紙関連の会社に就職して、地域の青年団に入りました。
その頃、4年に一度世界中のボーイスカウトの仲間が集まるキャンプの祭典『世界ジャンボリー』の第13回大会が朝霧高原で開催されることになっていて、その奉仕のために富士市でも青年の隊『ローバースカウト』 ができたんです。青年団からも参加することになり、僕はその時からずっとボーイスカウトの活動に携わってきました。野外で仲間と活動するというのが自分に合っていると感じたんですね。世界ジャンボリーでは2万人ものボーイスカウトの仲間が集まり10日間のキャンプ生活をしたんですが、この時は台風が接近して、富士・富士宮市内の学校の体育館に避難したりと本当に大変でした。
その後、24歳の時にアメリカ・アイダホ州で開催されたアメリカジャンボリーに、日本団の指導者の一人として派遣されました。そこで見たアメリカのボーイスカウトの規模に驚いたんです。乗馬や射撃などを体験する機会もありました。10代、20代でこういう経験ができたのは、本当にラッキーだったと思います。
会社勤めをしながらの活動ということなんですね。
はい。とても寛大な会社で、アメリカジャンボリー参加のため『1ヵ月休ませてください』と言ったら、行かせてくれました。でも、僕が休んでいる間に会社は大変なことになっていたんです。1973年、オイルショックで家庭紙が足りなくなった時です。僕は定年まで転職はせず、ずっと同じ会社に勤めました。結婚は31歳の時ですが、妻は『こんなに出かけてばっかりの人だとは思ってもみなかった』と言っています(笑)。定年後は富士宮市にある星陵高校の技能職員として7年間お世話になり、野外活動で培った技術を生かして修理や保全など、用務の仕事をしていました。今はシルバー人材センターの仕事をしたり、まちづくりセンターのアウトドア教室の講師をしたりしています。
最近は趣味としてアウトドアを楽しむ人も多いですが、ボーイスカウトの活動は何が違うのでしょうか?
ボーイスカウトでは『生き抜く力』を身につけていきます。キャンプなどの野外活動の知識が災害時にも役立つというので、市が『ファミリーキャンプ』を企画して、ボーイスカウトやガールスカウトが奉仕しながら参加家族といっしょにキャンプをしたこともありました。昔はキャンプといえばボーイスカウトでしたが、今は誰でもキャンプを楽しむようになりましたね。コンロや鍋など、便利でいい道具もたくさんあります。そういう道具を使ってアウトドアを楽しむのも良いのかもしれませんが、僕のアウトドア教室では、森で薪を拾ってくるところから始めて、火をおこし、器具を使わずに料理をします。ふだんできないことを体験してもらうんです。
ボーイスカウトでは、ナイフとロープさえあれば何とかなるような技術を身につけます。最近は危険なものから子どもを遠ざけがちですが、それでは歩き始めたばかりの子に『危ないから歩かないで』というのと同じです。子どもが刃物を使う時には、刃物を握る手は素手で、手袋はさせません。物を支える方の手に手袋を2枚重ねてさせます。大きなケガはダメですが、少しくらいならそれもまた経験です。切ったら血が出ますが、痛さが分かるんです。常に安全第一ですが、危険から遠ざけないで子どもたちにやらせてみる。体験させることが大切です。
ボーイスカウトはアウトドア愛好家の集まりではなく、指導者側には『良き社会人をつくる』という目的があり、『より良い人生を送る』という目標のある教育的な運動なんです。さまざまな野外活動を通じて、子どもたちの考える力や諦めない心、チームワークを育てます。アウトドアを楽しむことは目的ではなく、手段なんです。
髙村さんが長い間子どもたちと関わってきた中で、特に感じることは?
今と昔で一番違うのは体力です。昔の子どもは集合場所まで自分たちで歩いて来ましたが、今は保護者が車で送迎するのが普通になっています。体力がないのですぐに疲れてしまい、すぐに音をあげてしまう子もいますね。それから、訓練されている子とそうでない子はまったく違います。練習したり体験したりしていると違いは明らかです。中学生くらいになると、体がぐっと大きくなって本当に頼もしいんです。ボーイスカウトでなくても、東日本大震災の時には、中学生が暖をとるための火を燃やすのに必要な木を運ぶなど、大活躍だったそうです。
スポーツは試合に出て勝てば力がついていると判断できますが、ボーイスカウトは活動に参加していても生き抜く力がついているかどうか、目に見えるわけではありません。でも、親元を離れて一人暮らしを始めたりすると、役立つことがたくさんあるようですよ。自分の人生は自分でなんとかするものです。特に災害の時には、自分の身は自分で守ることが大切です。
自分の人生は、自分で漕ぐ
指導者として気をつけていることは何ですか?
僕が活動の際に大事にしていることは、『安全であること』『自然を大切にすること』『楽しむこと』の3つですが、一番大事なのは『安全』です。危険を察知して判断するには、経験の積み重ねや指導者の技術がとても大切です。富士には現在10のボーイスカウトの団があり、活動内容はそれぞれの団ごとに特色があるのですが、僕の所属している団では、暖をとることの大切さを知り、経験を積むことを目的に2月に雪中キャンプをします。雪の中でキャンプをするなんて普通はやらないことですよね。昔は指導者に技術もなく、テントや寝袋などの装備も良いものがなかったので、子どもたちだけでなく指導者も本当につらかったんです。寒いとつま先から背中まで冷えて寝られないんですよ。今は経験を積んだ指導者もいますし、断熱材や良い靴、使い捨てカイロもあるので、昔に比べれば快適になったと思います。ボーイスカウトの活動は指導者をはじめ、人に支えられる部分がとても大きいですし、技術や考え方を伝えていくというのも本当に大切です。
技術のある指導者の下で、実際にいろいろな体験をするのはいいですね。ボーイスカウトでなくてもふだんから子どものためにできることはあるのでしょうか?
外へ出る、野外へ出かけるのが一番です。遊園地のような場所ではなく、森の中を歩くだけでもいいんです。子どもたちは遊びの天才ですから、何もなくてもいろんな遊びを考え出します。虫もいますし、何か予測不可能なことが起こるかもしれません。それからお腹を空かせること。そうしないと精神的に強い子にはなりません。家族に守られているだけではなく、年齢や地域の異なる子と交わることもいいと思います。年上の子が年下の子の面倒をみる。そうすると、大きくなった時には自然に自分より小さな子の面倒をみるんです。世の中にはいろんな人がいて、なんとかその中で折り合ってやっていく必要があります。そういう意味でも家にこもっていてはいけないんです。
髙村さんご自身が活動を本当に楽しんでいるように感じられますね。これからはどんなことをしていく予定ですか?
まだまだ習うことばかりで、一生学習です。世の中にはいろんなノウハウを持っている人が多くて、まだまだ吸収させてもらうことがたくさんあります。火を燃やすということにしてもいろんな技術があって、それを真似したり自分なりに工夫してみたりするんです。子どもたちと活動していると、子どもたちから教わることもたくさんあります。アウトドア教室では、僕も毎回勉強です。経験を積み重ねて、試行錯誤を繰り返して良くなってきたんです。正解はありませんが、基本はあります。基本を身につけたら応用は無限大です。やってみたいことは次々に出てきます。カヌーやダッチオーブンを使った野外料理は僕の個人的な趣味だったんですが、気がついたらどちらもボーイスカウトの活動の中に入っていました。
僕の人生は、キャンプ生活で子どもたちの成長を感じることのできる一大イベント、ジャンボリーの積み重ねであり、ボーイスカウトそのものです。先輩たちがボーイスカウトは『幸せ運動』『より良き人生のための運動だよ』と言っていました。ボーイスカウトの創始者ベーデン・パウエル卿のように、人生の最後に『良い人生だった』と言えたらいいなと思います。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text/Kazumi Kawashima
Cover Photo/Kohei Handa
髙村 賢一
ボーイスカウト 富士地区富士第2団 団委員長
1949(昭和24)年3月8日生まれ
富士市出身・在住
(取材当時)
たかむら・けんいち/吉原第二中学校、吉原商業高校(現・富士市立高校)卒業後、富士市内の家庭紙問屋の会社で営業、倉庫管理、運送などに携わり、定年後は富士宮市にある星陵高校で技能職員として勤務。会社員として働きながら、ボーイスカウト運動に深く携わり、1970年第5回日本ジャンボリーをはじめ日本各地で開催のジャンボリーや1971年の第13回世界ジャンボリー、1973年の第8回アメリカジャンボリーも経験している。現在、ボーイスカウト富士地区富士第2団の団委員長を務める傍ら、まちづくりセンターのアウトドア教室の講師をはじめ野外活動の指導者として活動を続けている。
ボーイスカウトとは
1907年にイギリスで始まった青少年教育活動で、退役軍人のベーデン・パウエル卿が野外教育で少年たちが社会に役立つ人間へ成長することを願い、20人の子どもたちと実験キャンプを行ったのが始まり。今では世界169の国と地域に約4,000万人の会員がいる。年齢によって『ビーバースカウト』(小学1、2年生)、『カブスカウト』(小学3~5年生)、『ボーイスカウト』(小学6~中学3年生)、『ベンチャースカウト』(高校生)、『ローバースカウト』(18~25歳)の5つの隊が編成されており、訓練を受けた指導者が身体的、知的、精神的な成長に合ったプログラムを組み立て、活動している。
ボーイスカウト 富士地区
お問い合わせ
電話:0545-21-0338(髙村)
お住まいの地域やご都合に合う団を紹介します。
本部
公益財団法人 ボーイスカウト日本連盟
https://www.scout.or.jp/
Nutshell 〜取材を終えて 編集長の感想〜
富士のようにそこそこ便利な街で暮らしていると、毎日の生活のなかで起こりうる出来事というのは意外と幅が狭いものです。想定外のこと(たとえばイノシシと出くわしたり、水や食糧が尽きたり)なんかほとんど起こりません。そうすると自分の身体能力や知恵の使い方もどんどん限定的になってしまうような気がします。ふだんの仕事はできても、災害のようなまったく不測の事態で生き残ることができるかどうかは別問題です。
「アウトドア」ということばは娯楽的な文脈で使われることが多いですが、高村さんのアウトドア世界には生と死のリアリティが当たり前に存在します。「自分の身体と知恵で生き抜く」という生き物としての根源的なルールを、自分でも実践しながら生涯をかけて子どもたちに教えてきました。予測不能な非日常世界に身を置くことで身につけた生き方の基本が、日常生活の連続である人生を豊かにする。「生き抜く力」とは文明社会の外の世界だけの話ではないのですね。
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