Vol. 173|富士聴覚障害者協会 会長 鈴木 誠一
人は通じあえる
日本語は言語である。これほど当たり前の事実に対して、その意味や価値を深く考える機会はほとんどないだろう。では、「手話は言語である」と言われた時、あなたはどう感じるだろうか。静岡県は2018年に手話言語条例を制定した。言語とは、意思を伝え合い、思考し、感情を表すためのもの。音声言語である日本語と、視覚言語である手話は、それぞれが独自の体系を持つ、かけがえのない文化なのだ。
鈴木誠一さんは、自身、両親ともに先天的に聞こえない家庭環境で生まれ育った。現在は富士聴覚障害者協会の会長として、手話の普及・啓発活動に取り組んでいる。
富士市から派遣された手話通訳者を介して行なわれたインタビューの中で鈴木さんが何度も語ったのは、「手話は言語です」という簡潔かつ本質的なメッセージだった。障害者への差別や異文化への偏見は、少しずつではあるが社会から排除されつつあると信じたい。聞こえない人が日本語を理解するための「補助具」として手話を捉えていた人は、鈴木さんの言葉に触れて、もう一つ先の優しい世界へと、ともに足を踏み入れてほしい。
鈴木さんの活動や発信している内容について教えてください。
僕は現在、障害者支援施設で働きながら、おもに夜間や休日に、手話の普及や聴覚障害者の生活向上に関する活動を行なっています。地域の学校や企業に招かれて講演をすることもありますし、市民向けの手話講座では講師も務めています。
どんな場でも僕がまず伝えているのは『手話は言語です』ということです。聴覚に障害がある人のうち、手話を言語として日常生活を営む人のことを『ろう者』といいますが、ろう者にとって、手話は母語なんです。手話というと多くの人は、福祉、介助、ボランティアといったイメージを抱くのではないでしょうか。でもそうではありません。日本語、英語、フランス語、手話、という感じで、手話はそれ自体が一つの言語体系なんです。すでに日本語を習得した人が中途失聴や難聴になった場合は別ですが、ろう者は言葉の意味を手話で理解します。
日本語で書かれた文字を目にした場合、僕たちはそれを脳内で一度手話に変換して、理解して、返事を考えて、それをまた日本語の書き言葉に変換して表現しています。つまり手話と日本語のバイリンガルですね。英会話を学んだ人が、聞いた英語を脳内で日本語に変換するのと同じです。また、手話には独自の文法があるので、『私』『は』『手話』『を』『学びます』というように、日本語の単語を一つずつ手話に当てはめて話すわけではないんです。
なるほど、まずは日本語と手話を分けて考えること が大前提なんですね。
手話には日本語にはない表現方法もあります。たとえば、『富士』と『富士山』は日本語ではどちらも『フジ』と言いますが、手話ではそれぞれ別の表現になります。また日本語では『富士山』の意味は一つだけですが、手話では大きく表すことで『地元で見る迫力のある富士山』、ちょこんと小さく表せば『遠くからかすかに見える小さな富士山』というように、視覚的なニュアンスも含めた幅広い表現ができるんです。
ちなみに、手話にも方言があるんですよ。『富士』という手話は全国的には5本の指を使って表現しますが、地元では3本指で表します。昔から3本指で表現していた慣例が、地元ではそのまま残っているんですね。日本語も手話も、それぞれに奥行きと味わいのある素晴らしい言語だと思います。
手話を母語とする鈴木さんが日本語を習得していく過程は、どのようなものだったのですか?
両親が日常的に手話で会話をしていたので、幼い頃からそれが当たり前だと思っていました。僕自身は補聴器をつければ少しだけ音が聞こえるという状況でしたが、ある日両親に『明日から保育園に行くよ』と伝えられたんです。保育園では周りの子たちがお互いに口を動かしているのを見て、『何をしているんだろう?』って不思議で仕方がありませんでした。そのことを親に尋ねると、『私たちは聞こえないんだよ』って。その時に初めて、聞こえる人、聞こえない人という区別があって、どうやら僕は聞こえない人らしいと分かったんです。そして何より、手話以外に人と話す方法があったのかと、衝撃を受けたのをよく覚えています。
最初のうちは先生がそばについてくれて、話している人の口の動きを見て、日本語を理解することから始めました。口話法(こうわほう)と呼ばれるものです。また他の園児が帰った後に、一人だけ居残りで『言葉の教室』という個別授業を受けました。ろうそくの前で発声して、炎の揺れ方の違いで発音や息づかいを訓練したり、トイレに入る前にドアをノックするといった、聞こえる人特有の行動について学んだり。僕はそこで初めて日本語を獲得して、聞こえる人の文化に触れたんです。
「聞こえる人の文化」という捉え方は新鮮に感じます。以後、生活上の不安は軽減していきましたか?
いえ、むしろそこからが大変でした。その後一般の小学校に入って学年が上がるにつれて、差別を受けることが増えていきました。僕がつけている補聴器を隣のクラスの子が見に来て、指を差して笑われたり、耳が聞こえないっていうジェスチャーをしてからかわれたり。
学校では大半の時間を一人きりで過ごしていました。先生の口の動きが見えるようにと、授業では必ず一番前の席に座らされるんですけど、先生が教科書を持って読む時に顔が隠れたり、黒板を見ながら話したりするので、口の動きが見えないんです。仕方ないので隣の子がページをめくるのを見てそれに合わせたりして、いつも周りに気を遣っていました。
当初はろう学校に通う予定だったんですけど、自宅の隣に住んでいた大家さんが両親に、『あなたの子は少し聞こえるんだから、手話なんてみっともない。ろう学校に通うなんて恥ずかしいから、普通の学校に行かせなさい』って伝えたそうなんです。それで両親は小学校に何度も頭を下げに行って、なんとか入れてもらったといいます。
10代後半になると、自分自身について考え、悩むことが多くなりました。手話を使うのがいいのか、日本語がいいのか。ろう者に生まれて良かったのか、聞こえる人として育ちたかったのか。そんなある時、これまでずっと大家さんの指示通りに生きてきた両親を問いただしたことがありました。すると両親は、『聞こえる人に従うべきだ』って答えたんです。ちょうどその頃、富士聴覚障害者協会に入会して、勉強会や啓発活動に参加したことで、ろう者としてのアイデンティティの大切さに気づき始めていた僕は、『それは違う!』と感じました。ただ、それは両親への反発心ではありません。なぜなら、両親の育った環境は古い価値観が支配的な時代だったからです。聞こえる人に合わせて、聞こえない人は我慢して生きなければならない。美しい日本語を話せることが素晴らしくて、手話は恥ずかしいもの、隠すべきものという考え方です。ろう学校の教育方針ですら、かつてはそういう価値観に押し込められていて、一時期は手話自体が禁止されたこともあったんです。もし僕がその時代に生まれていたら、きっと両親と同じように大家さんの言うことに従わざるを得なかったでしょう。
父は沼津のろう学校に通っていたのですが、通学の電車内で侮辱され続け、石を投げつけられたこともあるといいます。一方で母は、そんな中でも地域のサークルで手話を教える活動をしていました。『なぜ聞こえる人にわざわざ手話を教える必要があるんだ!』と責める僕に、母はこう言いました。『昔は理解がなかったけど、今は少しずつ手話が認められてきて、差別も減ったでしょう。だから私たちが笑顔で誇りを持って、もっと手話を広めていかないと』って。そんな両親を見ていて、僕ははっきりと理解しました。両親が悪いんじゃない、社会が遅れているだけなんだと。」
そのような経験と思いが、鈴木さんの活動の原動力になっているんですね。
正直なところ、僕自身も子どもの頃は『聞こえる人が上、自分は下』という意識がありました。でも人生悪いことばかりではありません。中学卒業後は一般企業で働きながら、定時制の高校に通ったのですが、職場や高校で出会った人々の中に、障害者や手話に対して理解のある大人が多くいたことで、心が救われました。
フォークリフトを使う作業中に、『危ないから俺のそばを離れるなよ』と優しく気遣ってくれる上司や、手話に対して興味を持ってくれる仲間がいて、『休み時間に手話を教えて』とか、『多少離れた場所でも会話ができるから、手話っていいね』と、肯定的に接してもらえたことで、気持ちが明るくなっていきました。『聞こえる人=悪い人』じゃないと気づいたことで、自分は自分がやるべきことを頑張っていけばいいんだと思えるようになったんです。
静岡県や他の市町に続いて、富士市でも今まさに手話言語条例の制定に向けた準備が進んでいます。とはいえ、形だけの条例を作っても意味がありません。行政や市民のみなさんに手話への理解を深めてもらいたいと思っていますし、そのためにはまず、僕たちろう者が自ら学ぶ姿勢が重要です。そもそも言語とは何か、何をもって言語といえるのか、さらには手話の歴史や日本語との違いなどを合理的に説明できる知識を高めていきたいです。
また同時に、僕がこの場でこんな発言ができるのも、両親をはじめ先人たちの取り組みがあったからだと実感しています。『富士市手話サークルひまわり友の会』という任意団体があるのをご存じでしょうか。僕が生まれる前の1976年から、手話を広めるための勉強会やイベント参加、情報発信などの活動をずっと続けています。まだ差別や偏見が色濃く残る昭和の時代、手話を使うだけで好奇な目で見られて、精神的にも難しい活動だったはずです。そんな中でも、富士市にろう者がいるんだ、手話が必要なんだと、地道にアピールしてきた人たちがいるんです。
ずいぶん昔の富士まつりの会場を写した写真を見たことがあります。そこに残されていたのは、ごく少人数の『ひまわり友の会』のメンバーが、他の大きな市民団体のブースに挟まれながらも、笑顔で手話を紹介している様子でした。時を経てそういう姿を目にすると、感謝と尊敬の気持ちで胸がいっぱいになります。
僕は講演だけでなく、差別撤廃を訴えるデモや署名活動にも積極的に参加してきましたが、これらはもちろん、聞こえる人への攻撃ではありません。手話と日本語の対立を望むものでもありません。目指すのは、言語としての手話を公的に継承しながら、他の言語と共生できる当たり前の社会です。聞こえる人の文化と聞こえない人の文化があって、思いを伝える言葉がある。そのことをお互いに尊重して、協力しながらともに進んでいくための行動を、僕は一生続けていきます。
手話という言語を広めたい
手話通訳協力:富士市役所 障害福祉課
手話通訳者:入月 真弓 / 金 仁寿(敬称略)
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Photography/Kohei Handa
鈴木 誠一
富士聴覚障害者協会 会長
1977年6月23日生まれ 43歳
富士市出身・在住
(取材当時)
すずき・せいいち / 家族全員が先天的に失聴した、ろう者の家庭に生まれ育つ。富士中卒業後、旭化成株式会社に入社し、並行して富士高校定時制に通学。2011年より社会福祉法人『インクルふじ』に勤務し、現在は生活介護事業所『あそ~と』で重度身体障害者の支援業務などに従事。10代後半から富士聴覚障害者協会に所属し、聴覚障害に関する学習会や啓発運動、手話の普及活動などに参画。2015年、同会会長に就任。富士市手話奉仕員養成講座、静岡県手話通訳者養成講座の講師を務める傍ら、地域のイベントや学校・企業での講演活動にも積極的に取り組んでいる。
富士聴覚障害者協会
公益社団法人・静岡県聴覚障害者協会に加盟する県内9つの地域組織のうち、富士市・富士宮市を対象として1973年に設立された。聴覚障害者の福祉の向上を目的とした各種事業を行なっている。
富士市手話奉仕員養成講座
手話に興味のある初心者向けの市民講座で、入門課程と基礎課程を2年間にわたって学ぶ。将来的に手話通訳者を目指す足がかりにもなる。
取材を終えて 編集長の感想
今回のお話のテーマは「福祉」ではなく「多文化共生」です。外国で暮らす多くの人が、日本語・日本文化の通じない環境の中でのもどかしさを経験します。日本で暮らす外国人も同様です。現地の人にとっては簡単なことでもいちいち苦労するので、ときには自分を半人前に感じて落ち込んだりするわけですが、よく考えてみれば自分の能力が劣っているわけでも自分の価値が下がったわけでもありません。それは単なる「アウェー戦」みたいなもの。そして、逆に自分だけが持っている文化的バックグラウンドからくる、ほかの人の「見えていない・聞こえていないもの」が力であり個性になると気づくのです。
「障害者」を取り巻く環境もそれに似ているように思いました。ダイバーシティとは弱者救済のことではなく、社会の多数派に少数派を一方的に取り込むことでもありません。みんな違う経験を持ち、ちょっとずつ違う文化を生きているという当たり前を当たり前として認め、その状態をプラスに捉え、そして力に変えることが多様性の本質です。でも単一のバックグラウンドを想定した古いルールに固執していると、そこには行き着けない。
同じ文化、言語、性別、身体能力の内輪だけでしか共感しあえないなんておかしいですよね。人間には想像力があるから、他人との違いのなかにこそ、自分自身の体験の中にもある「通じあえる何か」を見つけることができるのではないでしょうか。
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