Vol. 142|富士・オーシャンサイド友好協会 会長 清水 小波
海辺の街に吹く風
この海のはるか対岸に私たちの「姉妹」がいる。青い空と海、カリフォルニアの太陽に抱かれたアメリカ合衆国オーシャンサイド市と富士市は1991年、姉妹都市提携に調印し、四半世紀にわたって友好交流が進められてきた。そして近年、富士市との協働によりこの事業に新たな活気をもたらしているのが、市民有志によって結成された『富士・オーシャンサイド友好協会』だ。
会長の清水小波(しみず さなみ)さんは自らもオーシャンサイドで暮らした経験を持ち、両市の魅力を肌で知るキーパーソンでもある。同会が目指すのは、市民レベルでお互いに顔を合わせ、心で触れ合い、学び合えるためのチャンネルづくり。姉妹都市という肩書や単発的な国際交流イベントだけで満足することなく、たしかなパートナーの存在を感じながら築き上げていく関係性は、きっと両市民共有の財産になっていくだろう。
まずは富士・オーシャンサイド友好協会の活動について教えてください。
英語圏との交流を求める市民の声を受けて27年前に姉妹都市となった富士市とオーシャンサイド市ですが、私たちは両市の親善交流や相互理解に関するお手伝いをしています。以前からボランティアとして個別に活動していて、さまざまな要望に沿ってオーシャンサイド側の窓口との交渉などにも対応してきましたが、組織化してはどうかという周囲の意見を受けて、6年前に任意団体として発足しました。
当時は富士市の国際交流関係の予算が少なく、一般市民を募ってオーシャンサイドを訪問する『富士市民友好の翼』も休止中で、せっかくの姉妹都市を活用しているとは言いがたい状況でした。そんな中、一昨年から協働という形で私たちが富士市の事業に直接関わることになりました。
やるからには真剣に、できることから積極的に取り組んでいこうというのがモットーです。結果として、中断していた訪問事業は『富士市少年親善使節団』として復活させることができました。また再開後の参加希望者は年々増えていて、今年は募集定員の倍以上の申し込みがありました。今回は7月末から6泊8日の日程で富士市内在住・在学の15名の中高生がオーシャンサイドを訪れて、ホームステイファミリーと生活をともにしながら、現地にあるミラコスタ大学での授業体験や市長への表敬訪問、約6キロに及ぶロングビーチの散策などを行いました。参加した若者たちはこの経験をそれぞれの形で、今後の進路や人生で活かしてくれることでしょう。
また旅費の一部は市からの補助を受けていることもあり、研修後の報告・意見交換会は必ず開催しています。彼らが現地で見て学んで考えたことを市民の皆さんに還元することが大切で、そこからさらに次の世代の関心や、国際交流に対する市民の意識が高まることを期待しています。
清水さんご自身が国際交流に興味を持ったきっかけは?
幼い頃からなんとなく、海外の異文化に関心がありました。一時期ブラジルに住んでいた親戚のおじさんがパイプをくわえて現れたのを見て衝撃を受けたことや、アメリカで牧場を経営していた別の親戚にいろいろな話を聞かせてもらったことをよく覚えています。ただ、学生時代は留学したいという夢を持ちつつ、実現できないまま過ごしました。『晴れ着も礼服もいらないから海外留学がしてみたい』と親に言ったこともあるんですが、その先の一歩が踏み出せなかった。意気地がなかったんですね。
そんな消化不良を心の隅に抱えたまま家庭を持って、子育てに追われて、ようやく国際交流に関わるようになったのは30歳前後からでした。その頃はまだ富士市に国際交流を扱う機関がなく、県の国際交流協会の活動にボランティアとして参加するようになりました。各国の料理を作ったりダンスを観たりといった手軽なものから始めて、来日した外国人のホームステイの受け入れなども経験しました。
時には全米自動車労連の書記長やインド・ベンガル地方の高官など、要人と呼ばれるような方々が我が家に宿泊することもありました。当時は英語を話せなかったので、生活に必要な言葉を手のひらに書いて、その場しのぎで対応するんですが、せっかく覚えた言葉もそのゲストが帰ったらすぐに忘れてしまうんですよね(笑)。最大級のおもてなしをしなくてはと張り切りすぎて、ご近所さんまで巻き込んで盛大なちらし寿司パーティーを開いたら、酢飯が苦手でゲストにはひと口しか食べてもらえなかったというような失敗もたくさんしましたが、すべてが貴重な経験で、私にとっては今の活動につながる栄養になっています。
そのような経験があったとはいえ、40歳を過ぎてからオーシャンサイドに移り住んだ行動力には驚きです。
その後富士市にも商工会議所内に国際交流協会ができて、そこでボランティア活動を続ける中で、学生時代に果たせなかった英語圏で暮らしてみたいという夢が再び膨らんでいきました。そんな時ふと、『富士にはオーシャンサイドという姉妹都市があるんだから、このつながりを活用しないなんてもったいない!』って思ったんです。国際交流協会を通じて現地在住の日本人の方を紹介してもらえたこともあって、意を決して2年間オーシャンサイドに住んでみることにしました。
とはいえ、もちろんそれは簡単なことではありません。3人の子どもたちのこと、仕事のこと、現地での生活のことなど、何から手をつけていいか分からない状況からのスタートでしたが、家族会議を重ねて、いろんな人に何度も相談して、必死に貯金をして、最初に思い立ってから2年がかりでようやく実現しました。
振り返ってみると、我ながら大胆なことをしたなと思いますが、その時は『やるなら今しかない、体力的にも精神的にも、今やらなければもう一生チャンスは来ない』という思いしかなくて、それが原動力になっていました。まさに大海原に漕ぎ出すヨットのように、ずっと待ち望んでいた追い風を背中いっぱいに受けている、そんな不思議な感覚でした。
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