Vol.111 |青年海外協力隊 平成24年度3次隊 隊員 川副 尚人
青年は未知なる地平を目指す
東アフリカの内陸部、ナイル川の源流に位置するウガンダ共和国。首都カンパラの標高は1,150メートルで、赤道直下にありながら乾いたサバンナという典型的なアフリカのイメージとは異なり、穏やかな気候と緑豊かな大地が広がる。かつての宗主国であったイギリスでは、チャーチル首相が『アフリカの真珠』と称え、第二次世界大戦中にはドイツ軍の猛攻を回避するため首都機能を一時的にウガンダに移転しようという案まで出たというから驚きだ。1980年代の内乱期には国土が荒廃し、世界最貧国とも呼ばれたが、現在では治安や経済も安定し、恵まれた自然環境や観光資源を背景とした潜在能力が注目されている。 このウガンダの地にJICA(独立行政法人・国際協力機構)のボランティア、青年海外協力隊の隊員として単身で2年間滞在した、富士市出身の青年がいる。現在は中学校で社会科講師を務める、川副尚人さんだ。カネやモノだけではない「顔の見える援助」を理念とする日本の開発途上国援助にふさわしく、現地の人々と密接に関わりながら農村の生活改善に取り組んだ川副さん。異国の地で戸惑いながらもその使命に体当たりで取り組んだ日々を語っていただいた。
せっかく行くなら、知らない場所へ
青年海外協力隊に応募したきっかけは?
昔から関心があったのは教育や心理学の分野で、子どもの頃は幼稚園の先生になりたいと思っていました。教育学科を選んだ大学では講義やゼミなどを通じて、いろいろな国へ留学した人の手記や、貧因や教育不足を背景とした少年兵士のドキュメンタリー番組などに触れ、海外には自分の知らない環境や深刻な問題がこんなにもあるのかと、衝撃を受けました。同じく大学の講義で知った青年海外協力隊の活動にも関心を持って、実は学生時代にも2回応募したんですが、強みとなる社会経験や専門性を持っていなかったこともあって落選してしまいました。 また教育実習の際にも、自分の人生経験や知識のなさを痛感して、このまま教師になっても今以上に世界を広げることは難しそうだし、もっと見聞を広めてからでも遅くはないと思いました。そんな経緯もあって、卒業後は民間企業への就職を選択しました。海外と関わりがあり、インフラの整備など人々の生活に役立つ仕事ができればと思い、電線や光ファイバーの製造事業を世界規模で展開している非鉄金属メーカーに入社しました。海外からの原料購入に関する業務を担当して、当初はこのまま定年までと思っていましたが、2年目3年目になるとなんとなくキャリアのゴールが見えてしまったというか、このままでいいんだろうかという気持ちが出てきました。 そんな時、通勤電車の中で青年海外協力隊を募集する吊り革広告が目に入って、『もう一度挑戦するなら今しかない!』と決意したんです。派遣先は世界各地の開発途上国で、活動する分野も含めて自分で選択するんですが、学生時代に短期ボランティアでアジアの途上国には行っていたので、どうせならまだ自分が知らない世界に飛び込んでみようと思い、アフリカに絞って応募しました。学校環境の改善など、教育分野の案件もありましたが、合格したのはウガンダでの村落開発普及員で、稲作を通じた収入改善を目的とするものでした。農業に関しては素人だったので不安もありましたが、とにかく全力でやってみようと思い、3年半務めた会社を退社しました。
合格してから現地に派遣されるまでの準備期間にもさまざまな過程があるそうですね。
書類審査から面接試験を経て合否が決まります。そこからが大変で、僕の場合は農業の実践的な技術や理論を学ぶための技術補完研修を受講する必要がありました。その後さらに派遣前訓練として、福島県二本松市にあるJICAの訓練所で約70日間合宿して、語学力の強化をメインに、異文化理解や安全管理など、講義や実習をみっちりと行います。派遣前訓練は原則的に隊員候補者全員が受けなければならないもので、費用はすべてJICAの負担ですが、語学の成績や生活態度が悪い場合は強制退所となります。集団生活で休みも少なく、訓練所内では飲酒も禁止という環境ですが、100人以上いる候補生の大半は熱意を持って語学や知識の習得に一生懸命でした。結局、実際に派遣先のウガンダへ向かったのは、最初に応募書類を提出してから1年半後でした。
現地での活動や生活はどのようなものでしたか?
首都のカンパラから100キロほど離れたチボガ県という地域を対象に、地元県庁の要請に基づいた援助活動を行いました。アフリカの環境でも収穫できるように品種改良されたネリカ米(New Rice for Africaの略)という米の種もみを農家に配布して、栽培のノウハウを伝えます。自給自足のための農業ではなく、収益性の高い米を扱うことで農家の現金収入を増やし、それを継続・発展させていくことが狙いです。ネリカ米は陸稲、つまり水田ではなく畑で育つ品種なので、それまでトウモロコシなどを植えていた農地をそのまま転用できます。また生育期間が約3ヵ月と短く、ウガンダには年に2回雨季があるため、米も2回収穫できます。 まずは農家への告知から始めるのですが、本来は一緒に行動するはずの県庁のウガンダ人職員が不在のことが多く、僕一人で活動することも珍しくありませんでした。役人や有力者だけではなく、農業の現場にいる人々と直接関わりたかったのですが、いきなり知らない日本人が現れて『米を作りませんか?』と言い出しても怪しまれるだけなので、まずは分かりやすく、富士山の写真が入った名刺に自分の連絡先と『米を育てたい人、募集中!』という言葉を現地語で書いて、バイクで各地の農家に配って回りました。それを見て連絡をくれた人を頼りに、説明会や種もみを配るワークショップを開催して、少しずつ稲作を営む農家を増やしていきました。 米による収入は同じ農地で生産するトウモロコシの2〜3倍になるので、誰もがすぐに賛同して稲作を始めるはずだと軽く考えていたんですが、除草や害鳥対策などで他の作物よりも手間がかかり、降水量によっては失敗するリスクもあるため、頑張れば稼げることは分かっていても、取り組もうとする人は案外増えませんでした。派遣当初は、『自分が稲作を広めれば、貧困も食糧問題も一気に解決だ!』と意気込んでいましたが、現実はそんなに甘くないことを思い知らされました。 また事前研修などで農業に関する知識を学びはしましたが、僕自身に稲作の実務経験がないこともあり、人に教えることは簡単ではありません。まずは自ら汗をかいて信用してもらうしかないと思い、最初の頃はひたすら一緒に農作業に励みました。そうして少しずつ賛同してくれる農家が集まり、2年間で40軒くらいになりました。その中で実際に収入が増えた農家を見て、周りの人が『じゃあ自分も!』となる好循環も出てきたのは嬉しかったです。僕の任期中だけでは成し得ない長期的な事業ですので、後任の隊員や現地の人々が受け継ぐことで、収益性の高い稲作を根付かせてほしいですね。
トウモロコシ畑だった土地を耕し、種もみを撒く作業に励む川副さん
自分で考えて、
自分で動くしかない
援助活動以外に、ウガンダの印象や思い出となる出来事は?
ウガンダの気候は日本の初夏が一年中続いているような感じです。雨季を除いては湿度も低くて、思った以上に快適に過ごすことができました。緑が豊かで、放っておいてもトウモロコシやキャッサバなどの作物がそこらへんから生えてくるような環境のせいか、楽観的な国民性というか、おおらかな人が多いですね。 その一方で時間や約束に対してもおおらかなところがあって、農家向けのミーティングでは時間になっても誰も現れず、30分過ぎてようやく一人来て、全員揃うのは予定時刻の3時間後ということもありました。その点では苦労もしましたが、面白いことに早く会場に来て待たされている農家の人も、遅れて来た人に対して怒るわけでもなく、ゴザを敷いてのんびりと待っているんです(笑)。そもそも腕時計を持っている人すらほとんどいなくて、それが常識であり文化でもあるので、郷に入っては郷に従うしかありませんよね。 裏を返せば開放的で陽気で、ウェルカム精神に富んでいるんです。バイクで農村を巡回している時、誰もいない道で突然チェーンが外れてしまい途方に暮れていたところ、どこからともなく人が集まってきて修理してくれたこともありました。その上、『いいよいいよ』と代金も受け取ってくれないんです。他にも雨宿りで軒先を借りていると、『入りなよ』と声をかけてくれて、温かいミルクとパンをご馳走してもらったこともありました。日本人とウガンダ人は外見的にも文化的にも異なる部分が多いですが、一人の人間として温かく迎え入れてくれたことが何よりも嬉しかったですね。
青年海外協力隊の任務を終えた後、改めて教員の道を選んだということですね。
ウガンダからの帰国後に中学校社会科の採用試験を経て、現在は講師として1年生の地理を担当しています。授業の合間に生徒たちにウガンダの話をすることもありますが、難しい話から入るよりも、虫を食べる話や地面に穴を掘ってトイレにする話など、分かりやすいネタの方がウケますね(笑)。世界にはいろんな環境で暮らす人々がいて、困難や課題も抱えながら生きているということを、子どもたちには知ってほしいです。また日本国内にも多くの外国人が住んでいて、肌の色や文化、宗教など、多様性を認め合いながら暮らしていくことの重要性も伝えていきたいです。 それと、湧水が豊富な富士地域とは対照的ですが、ウガンダでは近所の共同水道まで生活用水を汲みに行ったり、雨水を屋根伝いに貯水タンクに集めたりして少しずつ使っていた経験から、水の大切さや恩恵について深く考えるようになりました。日本では当たり前のことでも、それに感謝して無駄にしないという気持ちを、子どもたちの中に育んでいきたいです。僕が見たものや感じたことを伝える言葉が彼らの心のどこかに引っかかって、今すぐにではなくても、いつか将来の職業や生活、社会の在り方を考える上で何かのプラスになってくれればいいなと思います。
川副さんの授業風景(取材協力:静岡サレジオ中学校)
帰国したら
終わり、じゃない
これから海外ボランティアをやってみたいと考えている人や若い世代に向けて、何かメッセージやアドバイスがあればお聞かせください。
海外ボランティアについては、現地の人々のために具体的に貢献できる資格や経験を身につけてから参加することが望ましいと思います。医療・教育・農業など、活かせる分野はさまざまですので、日本の現場である程度力をつけてからでも決して遅くはありません。ボランティアに行ってはみたものの、専門性がないために現地で思うような活躍ができなくて悔しい思いをしたという話をよく聞きますし、僕自身もそうでした。 その一方で、若い世代に伝えたいのは、『興味を持ったら飛びつこう!』ということですね。矛盾するようですが、自分の中に直感や衝動が働いたら、それを信じてしっかりと踏み込んでみることも大事だと思います。ふと何かに興味を抱いても、淡々とした日常の中で流れていってしまいがちですが、物事には旬があります。僕の場合、人生の最期に、『ああ、やっておけば良かった』と後悔するのは絶対に嫌だということを最大の基準にしていて、青年海外協力隊への参加は、そういった思いが一番の原動力になりました。 また海外ボランティアは若者だけのものではなく、教育現場での経験を活かす現職教員の特別参加制度や、40〜69歳が対象のシニアボランティアなど、さまざまな形があります。僕も年齢を重ねたらまたウガンダに行きたいという思いを持ち続けていますし、その機会があればぜひ前回以上の貢献がしたいです。これからは与えられた仕事の現場でしっかりと経験を積んで、『今しかない!』という直感が再び降りてくるその時を待ちたいと思います。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino Text & Cover Photo/Kohei Handa
川副 尚人 青年海外協力隊 隊員 平成24年度3次隊 (ウガンダ共和国・村落開発普及員) 静岡サレジオ中学校 社会科講師 1986(昭和61)年3月23日生まれ(29歳) 富士市出身・静岡市在住 (取材当時)
かわぞえ・なおと/静岡聖光学院中学・高校を経て、上智大学文学部教育学科へ進学。卒業後、大手非鉄金属メーカーに入社。3年半にわたり工具の原料調達業務に従事した後、青年海外協力隊への合格を機に退職。海外ボランティアの事前研修を経た2013年1月より2年間にわたり、村落開発普及員として東アフリカのウガンダ共和国に派遣される。同国チボガ県県庁生産局を拠点に、主に稲作の普及を通じた収入向上を目的とした援助活動を行う。帰国後の2015年9月より、静岡サレジオ中学校(静岡市清水区)で社会科講師として教壇に立ち、現在に至る。
青年海外協力隊 JICA
ウェブサイト→https://www.jica.go.jp/ 日本政府が行う政府開発援助(ODA)の一環として、外務省所管の独立行政法人・国際協力機構(JICA)が実施する海外ボランティア派遣制度。隊員の募集は年に2回行われ、対象は20〜39歳の日本国籍保有者に限られる。「計画・行政」「人的資源」「保険・医療」など9つの分野があり、その中には約120種類の募集職種が存在する。派遣先はアジア・アフリカ・中南米など約70ヵ国と幅広いが、受け入れ国からの要請に基づいて派遣されるため、案件ごとに求められる技術・資格・経験などは異なる。派遣期間は原則2年間で、単身での赴任となる。
- Face to Face Talk
- コメント: 0
関連記事一覧
Vol. 190|エンディングプランナー 中村雄一郎
Vol. 106|造形作家 一ツ山 チエ
Vol. 187|まかいの牧場 新海 貴志
Vol. 101|シンガーソングライター CHISE
Vol. 163|レバンテフジ静岡 チーム代表兼監督 二戸 ...
Vol. 208|JICA海外協力隊 2021年度1次隊 中...
Vol. 120|岳南小品盆栽会 会長 池田 豊
Vol. 127|和太鼓奏者 和迦
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。