Vol. 201|核兵器廃絶平和富士市民の会 土屋芳久
あの日の誓いを忘れない
まもなく78回目の終戦記念日を迎える日本。多くの国民が、平和に暮らせることをあたり前だと感じているかもしれない。しかしその一方で、世界には今この瞬間も、戦争に巻き込まれて平穏な日常を失い、砲撃におびえながら日々を送る市民がいる。いいことなど一つもないとわかっているのに、戦前の日本人もしかり、なぜ人間は愚かな行ないに突き進んでしまうのか。
その問いの答えを探し、真の平和を求めて活動を続けるのが、核兵器廃絶平和富士市民の会の土屋芳久さんだ。現在87歳。胸に抱えるのは「戦争は人間が起こすもの。だとすれば、戦争をやめる責任も私たち人間にある」という、人類としての反省の思いだ。戦争を体験した者として、戦争展や平和講座などで戦争の悲惨さと平和の尊さを訴え続けることこそが自らの使命だと語ってくれた。
核兵器廃絶平和富士市民の会の活動について教えてください。
核兵器の廃絶と戦争のない社会の実現を掲げる市民団体で、約20名が所属しています。市民に向けたおもな活動が、1988年から毎夏富士市で開催している戦争展。もともとは1985年に富士市が平和都市宣言を出す際に署名運動をしていた団体です。その後、宣言だけでは不十分だと考え、平和教育の一助となるために戦争や平和、憲法について考える戦争展を始めました。我々が調べたことに加え、富士市内の児童から募集した作文や、戦争について学校で学んだことをまとめた模造紙の展示などもしています。
戦争展の理解をさらに深めてもらうため、会のメンバーが講師となり全8回の平和講座も開いています。参加者の中心は60代ですが、より若い世代にも興味を持ってもらおうと、子ども向けの講座や、座学のみならず市内に残る戦争遺跡を実際にめぐる企画も組み込んでいます。
来場者からは「富士市で空襲があったとは知らなかった」「憲法について初めてじっくり考えた」など、手応えのある反応をもらえますね。私も含め、戦争を体験した世代はどんどん高齢化しています。戦争を知る最後の世代として、自ら発信し続けることが使命だと思い、試行錯誤しながら続けています。
終戦を迎えた時は10歳だったそうですね。
終戦の日のことは鮮明に記憶しています。カンカン照りで、大人はラジオの前にいて、子どもたちは外で遊んでいました。のちに調べた記録によると、ラジオから流れる音声は雑音混じりであまりよく聞こえなかったようですが、放送終了後には大人たちがうなだれ、家の中がシーンとしていた光景を覚えていますね。1941年の真珠湾攻撃によって日米が開戦した日は、勇ましい軍艦マーチが一日中ラジオから流れ、それから半年ほどは国中がお祭り騒ぎのようでした。学校でも「兵隊さんを励ます手紙を書きましょう」などと言われ、子どもたちも沸き立っていました。
それなのに、戦争が終わったとたん教科書は黒塗りにされ、学校は民主主義教育に舵を切って、先生の言うことが180度変わったんです。子ども心に「一体何が本当のことなんだろう」と混乱しましたね。大きな変化を目の当たりにして、人の言うことを鵜呑みにせず、自分の頭でよく考えて行動しないとダメだと感じたことが、その後の人生の指針になっています。
戦時中、日本は鉄が不足して、各家庭の蚊帳を吊る四隅の金具までも集めるような体たらく。戦闘機のプロペラに至っては、木製のものまで作られました。当時の国力を考えたら、米英に勝てるわけがないと今の人はわかります。でも、当時は多くの国民が国の言うことに流されるがまま、戦争に賛成していたのです。かくいう私も「大人になったら陸軍将校になって父の仇を取る」と息巻いていた軍国少年でしたから。
戦争が終わっても、東京の生家は空襲で焼けてしまったため戻ることができず、疎開先だった現在の牧之原市で育ちました。父は戦死し、母親はたった一人で子どもたちを育ててくれましたが、生活は本当に苦しかった。戦争という、個人ではどうにもできない社会情勢に翻弄され、貧しい生活を強いられたことには、強い怒りを感じていました。戦争と貧乏は切っても切れないのです。貧しさを憎む気持ちが、文化的な最低限度の生活の保障をうたう憲法への興味にもつながっていきました。
学生時代にも、平和について考える機会があったそうですね。
進学した立命館大学には、戦没学生記念像である『わだつみ像』が設置されていました。入学式の際、当時の末川博総長が「教育者として、若者を二度と戦争に送り出さない」と誓った言葉に感銘を受け、私も平和を守っていこうと意志を新たにしたのです。所属したサークルでは、民主主義と憲法の精神を体系的に学びました。
戦争の反省をもとに作られた現憲法には、国際紛争を武力ではなく平和外交で解決する9条の規定と合わせて、地方自治がしっかりと定められています。国の決定に対して「ノー」とブレーキをかけ、暴走を止められる仕組みです。同時に表現の自由も明記されており、誰もが意見を述べる権利が保障されています。戦時中は反戦を唱えようものなら取り締まられ、正しいはずの意見もなかったことにされました。でも今は、誰もが堂々と自分の考えを表明できます。つまり、地方自治と表現の自由をはじめとする基本的人権の保障が戦争を起こさない仕組みであり、この憲法を正しく理解することが平和につながるのだと思います。
それからもう一点大切なのが、貧しさにあえぐことのない安定した生活です。国民が豊かに暮らせていれば、ほかの国に攻め込もうという世論にはなりづらい。一人ひとりの生活の安定こそが国の安定だと、私は考えているのです。大学卒業後に就職した静岡県庁では福祉事務所に配属され、数十件の生活保護世帯を担当しました。各家庭を訪問し、本当に貧しい暮らしを目にしたことで、生活をきちんと保障する重要性を再確認しました。貧しかった自分の経験と公務員としての責任感から、異動で部署が変わっても、福祉の勉強会や集会には顔を出し、人々の暮らしに関心を持ち続けていました。
また、就職してからは職員組合の活動にも参加していましたが、組合員の中に「12月8日が何の日か知らない」という人がいたんです。平和を守っていく上で、真珠湾攻撃の日は絶対に忘れてはならない特別な日です。戦争の記憶が風化してしまう危機感から、毎年その日に合わせて『不戦のつどい』というイベントを開催して、戦争パネルを展示したり、物資の乏しかった戦時中を思い起こさせるすいとんを食べてもらったりしました。節目の年には組合員の戦争体験をまとめた冊子を刊行するなど、さまざまな活動を続ける中で、平和富士市民の会と出会い、在職中から戦争展を手伝うようになりました。
過去に学び、
今ある平和を
守り続ける
戦争展への参加は自然な流れだったのですね。
55歳で定年退職したあとの人生を思い浮かべた時、戦争を体験した者として二度と戦争を起こさないための活動に力を注ぐべきだと、改めて感じました。戦争展も、定年後はもっと時間を割き、手伝いではなく主体的にやっていこうと決めたのです。
歴史を正しく知り、伝えていくためには、まず自分自身が専門の勉強をする必要があると思い至りました。そこで還暦を機に、京都の佛教大学の通信課程で日本史を専攻し、どこに史料があるかなどの調べ方や、筋道を立てて歴史の事実を証明する方法を学びました。卒業論文では戦争に関わるテーマとして「富士の飛行場の歴史」を調べました。
現在の富士南地区、西は富士川から東は早川の間、南北は海岸沿いから新幹線の線路にかけての一帯が、かつて日本陸軍の戦闘機パイロット養成のための練習場だったことは、あまり知られていません。当時訓練を受けた元・兵隊にも手紙を書き、直接飛行場を知る約20名の人たちに取材してまとめました。数多くの史料に当たり、立場の異なる人たちへ取材を重ね、多角的に見ていくことで、富士の飛行場にも特攻隊員がいたことなど、新たな真実も明らかになったのです。
その後も、長野県で戦争史を学ぶ団体と一緒に中国を訪問し、富士の飛行場建設時に日本へ連れてこられ、強制労働に従事した中国人に直接聞き取りを行なったりして研究を続けてきました。すべては過ちを繰り返さないために、過去を正しく知ることが大事だと思うからです。
平和のために私たちができることはありますか?
戦争展や平和講座に足を運び、戦争が起きたらどんなに悲惨な状況に陥るか、戦争の実相を知ってもらいたいですね。なぜ戦争が始まったのか、どうすれば防げたのか考えてみてほしい。
しかしながら、昔を知る貴重な歴史史料の適切な保管・保存が大きな課題となっているのです。戦後、国の命令によって多くの文書が焼かれてしまいました。それでもなんとか残った役所の史料や、学校の校務日誌なども、5年の保存期間を過ぎ、すでに廃棄されたものが少なくありません。会として、史料の価値を市に再三訴えてきたことで、現在では保存されるようになりましたが、ゆくゆくはこれらを公的機関で保管してもらい、市民が自由に閲覧できる環境を整えたいというのが我々の願いです。
すでに史料自体は傷みが激しく、データ化は急務です。会のメンバーが独自に集めた手元の史料は順次データ化しており、その数は2千を超えました。いずれかの公共施設で適切に保存し、後世に残していく意義を強く感じています。市民がいつでも誰でもアクセスでき、平和について学べる場が必要なのです。
戦争を経験し、その後歴史をさらに学んできてハッキリと言えるのは、「正義の戦争なんてものはない」ということ。世界には宗教間の対立もありますが、多様性を理解して認め合えば戦争にはなりません。国際紛争も、武力では解決しないのです。誰もが豊かな生活を送れて、他国を攻めることも攻め込まれることもない平和な社会を守っていくために、力のある限り活動を続けていきたいと思います。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text/Chie Kobayashi
Cover Photo/Kohei Handa
土屋芳久
核兵器廃絶平和富士市民の会会員
1936(昭和11)年6月9日生まれ(87歳)
東京都出身・富士市在住(取材当時)
つちや・よしひさ/東京都新宿区生まれ。日中戦争で父親を亡くす。1944年に牧之原市へ縁故疎開。空襲で都内の家を失い、茨城県に学童疎開していた兄らを呼び寄せ勝間田村(現牧之原市)で母親と子どもたち一家8人で暮らす。勝間田中学校、榛原高校卒業。立命館大学法学部を卒業後、静岡県庁入庁。組合活動にも熱心に取り組み、戦争の悲惨さと平和の尊さを訴え続けてきた。核兵器廃絶平和富士市民の会の活動に携わる中で、改めて歴史を知る必要を感じ、61歳から佛教大学文学部史学科にて歴史を検証するための学問的手法を学ぶ。一つの事柄についても正確さを期すため、多面的に取材し、海外へ調査に出掛けることも。戦争を直接知る世代として平和の尊さを伝えている。
核兵器廃絶平和富士市民の会
Nutshell 〜取材を終えて 編集長の感想〜
今年も終戦記念日がやってきます。1973年生まれの私にとって、少年時代に教わった戦争は40年近く前の出来事で、大昔のように感じました。しかし今あらためて振り返ってみると、私自身も「戦争の記憶が風化してゆく時代」を当事者として生きてきたんだと思い知らされます。10歳の頃の自分からさらに40年が過ぎ、戦争を直接知っている世代もだんだん少なくなり、同時に太平洋戦争のリアリティも次第に薄れていきます。1953年の「戦後」と1983年の「戦後」の意味が違うのと同じくらい、1983年と2023年の間にも「戦後」の意味は変わってきているのです。
いつからでしょう。戦争と平和について語ることが、まるで政治的スタンスの表明のように捉えられるようになりました。過去の戦争のことも、これからの平和のことも、「右派か左派か」という文脈から切り離すことがなぜか難しい。しかし本来、反戦にしても国防にしても、「戦争とは不幸である」という共通認識が出発点になるはずです。私たちの日常の幸せが破壊されてしまうことに対する想像力が世の中から消えてしまったときに、社会は根拠のない万能感とプライドに操られた集団ヒステリーへと落ちていってしまうのだと思います。冷静な判断力は、市民としての日常から距離を置いた俯瞰的な場所にではなく、私たちの市民生活の現実感の中にこそあります。個人が経験した悲しみを社会として記憶し伝えていくことこそが、市民としてできる最も大きな平和活動でしょう。
この地域にも戦争史跡が多くあり、また土屋さんたち地元の活動家や研究家の方々が残してくれている記録があります。そして今夏も戦争展が全国各地で開催されます。私も伝えることを人任せにせず、子どもを連れて行ってこようと思います。
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