Vol. 154|きがわドッグスクール 代表 木川 武光
人心(ひとごころ)と犬心(いぬごころ)
日々の暮らしの中で、癒しを与えてくれるペット。特に犬は、人間が初めて家畜とした動物ともいわれ、日本では聖徳太子や藤原道長、徳川綱吉も愛犬家としてその名を残している。しかし、昔から飼われてきたとはいえ、鳴き声などの騒音、制御できないなど、飼い主を悩ますことも少なくない。
「ここ20年で犬の飼い方が変わり、トラブルは増えています」と、『きがわドッグスクール』代表でドッグトレーナーの木川武光(きがわ たけみつ)さんは言う。今年10月にイタリアで行われる世界大会に日本代表として出場する木川さんは、犬の性質を理解すること、そして飼い始めのしつけが重要だと強調する。子どもを育てるには甘えさせるだけではなく、時には大人の我慢や根気も必要。これは人間だけでなく、犬を育てる際にもいえることなのだろう。
ドッグトレーナーの仕事内容について、具体的に教えてください。
依頼のあったお客さんの犬のしつけが主な仕事です。人を噛んでしまう、決められた場所でトイレができない、落ち着きがない、散歩のときに人がコントロールできないくらい引っ張ってしまうなどの相談があると、犬の訓練はもちろん、その犬の特性や生活環境を見て、問題行動が緩和されるような接し方を飼い主さんにアドバイスします。また、犬の競技会への出場を希望する方に対する指導もしています。外で犬を飼っていると、それだけで人と犬の間には一線が引かれますが、昔と違って今は室内で飼育する世帯が増え、犬と飼い主の関係が近くなりすぎたことがトラブルの原因になっている場合もあります。
僕は、犬と一緒に生活するのに一番大切なことは犬のハウスを置くことだと伝えています。乗り物に乗せるときに入れておく『クレート』と呼ばれるもので、サイズも大きすぎない方が犬は落ち着きます。最初は嫌がることもありますが、犬はもともと巣穴で生活していた動物なので、外の刺激が入らないような居場所を用意してあげる必要があるんです。動き回れる方が良いだろうと、つないだ上で自由にさせたり、サークルに入れたりする飼い主さんもいますが、家族や周りの様子が分かると、吠えたり噛んだりというトラブルにつながります。
居場所が整ったら、次は運動です。犬は本来狩りをして、縄張りを見回って生活をしてきたので、適度な運動と狩りに代わる遊びが必要になります。でも必ずしも毎日散歩に行く必要はないんですよ。人間の子どもと同じで、よく遊び、よく食べ、よく寝るのがいいんです。『運動=散歩』と捉えがちですが、ボール投げやおもちゃで引っ張りっこをしたり、長めのリボンがたくさんついたマットの中からおやつを探し出すゲームみたいなことをするのも、いい運動になります。放し飼いにしてしまうよりも、家の中で人がくつろいでいるときには犬を出して、人の用事があるときにはハウスに戻す。人の生活空間には危険なものがたくさんあるので、犬にとって放し飼いが幸せかというと、決してそうとは限りません。タオルや絨毯を食べてしまい、腸閉塞を起こしてしまうというケースも多いので、注意が必要です。
愛犬にとって良かれと思ってしたことが、かえってトラブルの原因になってしまうんですね。
子犬のうちからハウスに慣れ、メリハリのある生活をしていると、犬にもルールが分かってきます。個体差はありますが、2~3歳までそういう生活をしていると、家の中で放しておいても大丈夫になります。我が家にはパピヨンという種類の犬がいるのですが、どう変わっていくのかを見てみようと、2歳くらいまでハウスで、その後は放し飼いにしてみました。聞き分けもよく、とてもいい子ですが、人間が食べているときに欲しがったら与えているうちに、僕が箸を持ったら走ってきて、こちらをじっと見るようになりました。でも人間の食べ物には犬には食べさせられないものも多いので、待っている犬にはストレスになります。
一緒にいるラブラドール・レトリバーは放し飼いではありませんし、人間の食べ物を与えていないので、僕が何か食べていても何の影響も受けません。つまり、いつも人と一緒に過ごして甘えさせてもらっている犬の方が、ストレスが多くなることもあるということです。だからこそ子犬の頃のしつけがとても大切なんです。ハウスに入れると、家に来たばかりの子犬は不安で夜はうるさく鳴くこともありますが、そこは人間の方が我慢するところです。犬を甘やかしておいて、思うようにならないときに怒ったり嘆いたりするのではなく、人と犬の間に一線を引き、犬として尊重することで、信頼関係を築く。そのための第一歩がハウスなんです。
また、ハウスが重要なもう一つの理由は災害時です。避難所で過ごさなくてはならなくなったときに、ハウスなら避難所の中は無理でも、近くに置いておくことはできます。東日本大震災のときには、ハウスに入れない犬たちの居場所がなくて困ったそうです。
飼い犬に問題行動がある場合には、どのように対処すればいいのでしょうか。
問題行動がある場合は、まず悪いことをしない環境作りをします。外を歩いている人に吠えてしまうようなら、犬から通りが見えないようにします。それから『正解』を教えます。何が正しいのか分からなければ、間違ったことをしたからといって叩いても、犬には伝わりにくいんです。新入社員に何も教えずに『仕事をしなさい!』とだけ言ってもできないのと同じです。散歩中に人に向かって吠えてしまう犬には、勝手に動き回ってはいけないと教えます。すると吠える対象に出くわして吠えようとしたときに、飼い主が合図を出せば止まるようになります。
でももっと大切なのは、飼い始める前に家族構成や環境、目的などをしっかりと考えて、犬種や性別を選ぶことです。日本では忘れられがちですが、犬は動物です。ふとした拍子に犬の歯が手に触れただけで出血することもありますし、事故やご近所トラブルの原因にもなります。でも生まれつきの性質、環境を考慮した飼い方で、トラブルを減らすことができます。
犬には犬の生き方がある
木川さんがドッグトレーナーになろうと思ったのはいつですか?
もともと動物全般が好きで、小学5年生のときに自分の飼っていたダックスフントを連れてしつけ教室に通ったのがきっかけです。友だちが飼っていた犬はいろんな芸ができたんですが、『木川の犬は何もできねぇな』って言われるくらい、僕の犬は芸ができなかったんです(笑)。先生が連れていたシェパードが人の顔をよく見て、言葉もよく聞き分けているのを見て、自分も犬を訓練してみたいと思ったところからどんどんはまっていきました。
それからはずっとドッグトレーナーを目指し、両親も僕の夢を理解してくれました。高校在学中からシェパードの繁殖を手がけ、卒業後は犬の訓練所に入り、働きながら学びました。その後、周りの方々の応援もあって地元の富士宮に戻り、独立して現在に至ります。やや異色の経歴ではありますが、今では世界でもトップクラスの訓練士の方々との交流があり、とても恵まれていると感じています。小学5年生からやっていると考えると、訓練士としてのキャリアは約30年になるんですよ。
犬の試験というものがあるそうですね。
国際作業犬試験(IGP)といって、イメージとしては国際レベルの警察犬の訓練試験という感じです。『足跡追求』『服従』『防衛』の3つがあり、例えば足跡追求は、人が木片などに匂いを付け、それを歩きながら隠した後、犬が匂いを頼りに探します。世界基準の試験はとても高度で難しく、スタートは匂いを付けてから1時間後で、距離もかなり長くなっています。今年の秋にイタリアで開催されるIGPの世界選手権に、僕は日本代表選手として出場します。パートナーは子犬のときからずっとうちにいるメスのシェパードです。IGPはアマチュアの方々には難しいですが、自分の犬と一緒にアジリティという障害物競走に出場したり、同伴犬訓練試験を受ける飼い主さんもいます。
犬をとりまく環境はヨーロッパと日本では全く異なるんですよ。ヨーロッパでは、犬は飼い主が飲食していても『我、関せず』で足元でおとなしくしているので、カフェにふつうに犬がいます。店員も犬を気にはしません。日本ではドッグカフェがあり、犬用のおやつや水が提供され、店員も犬に声をかけます。犬を人間とは違う動物として扱いながら共生しているヨーロッパと、まるで人間の子どものように接する日本の文化の違いでしょうね。犬にとってどちらが幸せかは分かりませんが、人間との関わりが深くなると、トラブルも増えるのかもしれません。『犬は家族』というのは素敵な言葉です。日本では犬を人間社会の一員のように扱いがちですが、上手く共存していくためには、人間ではない『生き物としての犬』を尊重し、正しい距離感を保ちながら相互の信頼関係を築くことも必要です。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Cover Photo/Kohei Handa
Text/Kazumi Kawashima
木川 武光
きがわドッグスクール 代表/ドッグトレーナー
1979(昭和54)年8月17日生まれ
富士宮市出身・在住
(取材当時)
きがわ・たけみつ/富士宮市立第四中、富士宮農業(現・富岳館)高校卒。小学5年生の時に参加した犬のしつけ教室がきっかけでドッグトレーナーを志す。1998年に『きがわドッグスクール』を立ち上げ、子犬や家庭犬の出張トレーニングや、朝霧高原の専用グラウンドで障害物競走「アジリティ」、服従訓練「オビディエンス」教室を開催。また、犬を飼う前にどんな犬種が良いかなどの相談や、飼い犬の問題行動のカウンセリングなども行っている。現在はラブラドール・レトリバー、パピヨンのほか、11匹のシェパードを飼育。今年10月にイタリア・モデナで開催される『2019WUSV世界訓練選手権』にパートナー犬のナイト(シェパード・メス/表紙写真)とともに出場する。『ジャパンケンネルクラブ』公認ドッグトレーナー。『ジャパン・シュッツフントクラブLG富士』会長。
Nutshell 〜取材を終えて 編集長の感想〜
「犬は社会的動物である」とは、狼の群れの規律のような犬同士の関係を指すのと同時に、「犬は人間社会のなかで生きるもの」という意味でもあります。
犬は外を連れ歩く動物です。飼い主以外の人と接する機会が多くあります。吠えれば近所に迷惑がかかり、知らない人に咬みつくこともあります。家のなかで一生を過ごすような他のペットと違い、犬にもその飼い主にも社会性が求められます。
今回のお話は、まさに目から鱗の飼育論でした。犬には犬の、人間には人間の生き方があります。犬を擬人化せず、動物としての生来の性質や遺伝的な個性を飼い主が理解すること。犬らしく生きられる環境をつくる一方で、人間との一線を自覚させること。可愛さのあまり、私たちはついついペットを一生「赤ちゃん」のように扱ってしまいます。だけどそれは犬にとって大きなストレス。考えてみれば、人間の子どもだってなんの躾もなしに自由放任に育てられたら、大人になってから本人が困ります。本当の愛情とは、ただ甘やかすことではありません。猫可愛がりはいかんということです、犬だけに。
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