Vol. 140|ソウタカンボジアシルク オーナー 望月 颯太
富士発・カンボジア製グローバルブランド
その店内に一歩足を踏み入れると、清潔感のある爽やかな空気に包まれる。富士市交流プラザの向かいにあるカンボジアシルク雑貨の専門店『ソウタカンボジアシルク』。オーナーの望月颯太(もちづき そうた)さんは店頭での接客・販売だけでなく、商品の企画・デザイン・PR戦略・カンボジアにある工房の品質管理に至るまで、自らこなしてしまうというマルチプレイヤーだ。
世界文化遺産のアンコール・ワットで知られるカンボジア・シェムリアップ市出身で、6年前に日本国籍を取得した望月さんの主張からは、仕事への徹底したこだわりとともに、カンボジアに対してこれまで我々が抱いてきた先入観を振り払うような、新時代の息吹を感じさせる。カンボジアを愛し、日本を愛し、自立して歩み続けることで両国の経済と文化をつなぐ。30代半ばにして真に成熟した国際人の姿が、そこにはあった。
タイシルクという言葉は耳にするのですが、こちらはカンボジアシルクの専門店なんですね。
はい、それはよく言われます(笑)。カンボジアシルクは『ゴールデンシルク』とも呼ばれていて、文字通り黄金色に輝く繭(まゆ)から採れる絹糸は、滑らかな手触りと美しい光沢が特徴です。6世紀頃から飼育されてきたカンボウジュ種という原種の蚕(かいこ)が作る繭で、染めやすくするために白く品種改良されたものにはない、シルク本来の味わいがあります。
日本ではタイシルクの方が有名ですが、実はカンボジアは東南アジアのシルク生産の中心地として古くから栄えてきました。アンコール王朝時代には王宮内に絹織物の工房があったともいわれ、フランスの植民地時代にはヨーロッパへ輸出されていたという記録もあります。
そのカンボジアシルクを扱う当店は、既製品を輸入・販売するだけの店ではありません。洋服・バッグ・小物など、商品の多くは企画からデザイン、型紙の製作まで僕自身が行うオリジナルブランドで、カンボジア国内にあるシルク専門の会社と提携しながら、現地の工房で職人が手作りしています。
品質管理や現地のモデルを起用した商品撮影などで、年に何度かはカンボジアに行くのですが、職人さんに言わせると僕の注文や指示が誰よりも厳しいそうです(笑)。僕はいつでも150%の仕事がしたいと思っていて、なんでもきっちりやらないと嫌なタイプなんです。
もともと同じ国民、同じ言語なので、指示の細かなニュアンスが伝わりやすいという利点はありますが、納得のいく仕事ができるように導いていくのは大変なことです。目の肥えた日本の市場で通用する品質であれば、それはすなわち世界でも通用するわけで、僕の製品は世界的なブランドや大手のメーカーにも負けない自信があります。商品を手に取ったお客様によく言われるのが、『これ、本当にカンボジアで作っているの?』という言葉なんですが、それが僕にとっては最大の褒め言葉です。
一般的なイメージとして、「高品質なメイド・イン・カンボジア」への驚きがあるということでしょうか?
多くの日本人にとってカンボジアのイメージは、いまだにアンコール・ワットと貧困の国なんです。誰でも一度は目にしたことがあると思いますが、日本のメディアが伝えるカンボジアの姿といえば、貧しい村に芸能人が行って学校を作ったり井戸を掘ったりして、最後はみんなで感動の涙を流すといった内容がほとんどです。
もちろんそういう地域が一部で残っていることも事実ですが、いつまでもこのような情報だけが発信され続けていることには、個人的に違和感を覚えます。たしかにカンボジアは20年以上にわたる内戦やポル・ポト政権による虐殺など、不幸な歴史を経験しましたが、それは一時期のことで、現在はめざましい経済発展と文化の復興が進んでいます。
内戦以前の首都プノンペンは『東洋のパリ』と呼ばれるほど豊かで洗練された街でした。恐怖政治によって教育者や知識人が迫害された結果、今でも国民の平均年齢が24歳という特殊な状況で、元の姿に戻るまでには時間も必要です。ただ、今の若者はきちんとした教育を受けられるようになりましたし、僕と同世代の優秀な起業家もたくさん出てきています。国民生活や治安も良くなっていて、最近ではプノンペンでも高層ビルが目立つようになってきました。大変な時代を生き抜いてきた人々だけに、これから先は本来のカンボジア人らしく、明るく前向きに歩いていこうという雰囲気に満ちています。そういった側面にフォーカスしたテレビ番組があれば、日本の視聴者の多くは『えっ!?カンボジアってこんな国だったの?』と驚くはずですよ。
人の意識やイメージを変えるということは本当に難しいことですが、僕自身もこの仕事を通じて、カンボジアの真の姿、受け継がれてきた伝統や技術力の高さを発信しているつもりです。また、優れた製品をそれに見合う価格で提供することで、工房で働く現地の人々にも正当な報酬がもたらされます。彼らの生活を向上させることも僕の使命だと思っていて、それが自分を育ててくれた祖国への恩返しであり、誇りでもあります。
経済力の弱い発展途上国の製品を適正価格で取引して、その国の経済や生産者の生活を支援する『フェアトレード』という考え方がありますが、僕は支援という付加価値で買ってもらうのではなく、あくまでも製品自体の価値や魅力で真剣勝負をすることを大事にしています。『カンボジアは内戦があって、虐殺があって、大変ですね』という言葉を、お客様からよく聞きます。もちろんご本人に悪気はなくて、優しさの表現であることは分かっていますが、僕はいつもこう答えます。『はい、昔はそうでした。でも今は平和になりましたよ。平和な国でなければこんなに美しくて完成度の高いシルク製品を作ることはできません』と。いつまでも『かわいそうな国』でいたくはないんです。
望月さんは日本にいながらカンボジアの文化や経済を後押ししているのですね。そもそも日本との関わりや、来日することになった経緯は?
日本との関わりは、子どもの頃にテレビで観ていた『仮面ライダー』や『ドラえもん』が最初ですね(笑)。日本から文房具などの支援物資が学校に届いて嬉しかったことも覚えています。
あまり知られていませんが、日本の敗戦後、当時のカンボジア国王は日本に対する戦争被害の賠償請求権を放棄しました。それ以来両国の友好的な関係は続いていて、日本からは教育やインフラ整備の支援があり、多くのカンボジア人にとって日本はとても身近で親しみを感じる国です。
僕が学生の頃はまだ内戦の影響が強く残っていて、学校を卒業してもなかなか仕事を得られない時代でした。英語か日本語を身につけると有利になるということで、僕は両方を学んだのですが、日本語の複雑さや文字の難しさが面白くて、学べば学ぶほど好きになっていきました。
9歳の頃に家族でプノンペンに引っ越して、大学時代から日本語教師をしていたのですが、同じく日本語教師としてプノンペンに滞在していた富士市出身の妻と知り合い、結婚しました。妻の出産を機に来日することにしたのですが、教科書でマスターしたと思っていた日本語も、日本での日常生活ではなかなか思い通りにいかず、最初のうちは苦労しました。
来日後は8年間ほど富士市内のメーカーに勤務して、少しずつ責任ある仕事を任せてもらえるようにもなり、日本での仕事のやり方など、多くのことを学びました。どうして僕の周りにはこんなに優しい人ばかりいるんだろうかと不思議に思うほど、妻の両親をはじめ、会社や地域の皆さんには親切にしていただき、感謝の気持ちしかありません。日本の大都市では失われつつある地域の団結力も、富士にはまだまだ残っていると思います。気候が穏やかで、食べ物が美味しくて、美しい富士山を見ることができて、この町がとても気に入っています。
「かわいそうなカンボジア」は、もう卒業
周りの人に恵まれるのは、望月さんの人柄による部分もありそうですね。とはいえ、その後自ら起業するという決断にはかなりのエネルギーを要したのでは?
自分の年齢やキャリア、人としての成長、家族の生活などについて考えた時、このままずっと同じ環境で同じ仕事を続けていくことへの不安がありました。いつかは自分でビジネスを始めたいという夢は以前からあって、私も妻も大好きなカンボジアシルクを日本で紹介すればきっと評価してもらえるはずだという確信もありました。
知名度はまだまだですが、その魅力を伝えるためにSNSで情報を発信したり、県外のデパートでの展示会に出展したりと、積極的に活動しています。いずれは『富士に行けば最高のカンボジアシルクが手に入るらしい』と評判になって、遠方からも人を集められるような存在になりたいですし、支店の展開も考えています。
僕は基本的に慎重派で、経営も身の丈に合ったやり方で堅実に進めるつもりですが、その反面、いつまでも小さなところに留まっていては、いつか潰れてしまいます。支えてくれる家族やお客様のためにも、自分の力がある限りは大好きなこの事業を継続・拡大していきたいです。
日本での生活や事業はカンボジア国籍のままでも可能ではないかと思うのですが、日本国籍を取得するに至った思いについてお聞かせください。
名前も顔立ちも普通の日本人っぽいので、僕のことを日本生まれの日本人だと思っている人もいるようです。ミステリアスな存在のままでもいいかなと思っていたんですが、このインタビューで全部バレてしまいますね(笑)。
望月は妻の姓で、颯太という名前は自分で考えました。元の名前は『ソー・チャンター』というのですが、颯(そう)という文字に音を残しつつ、爽やかな風のようなイメージにしました。画数の姓名判断もしっかり調べたんですよ(笑)。帰化申請で名前を決める際にカタカナを使う人もいますが、僕はもともと日本語や漢字が好きだったので、この名前にしました。
もちろんカンボジア国籍のままでいるという選択肢もありましたが、僕は自分で決めて日本に来て、ここで一生暮らしていくつもりですから、その覚悟を表現したいという思いがありました。家族としても、より一体感を持って、安心して暮らしていける環境にしたかったんです。これが僕の運命であり、人生だと思っていますので、後悔はありません。
でも不思議なんですが、今の自分には望月颯太という名前に違和感がまったくなくて、心からしっくりくるんです。ソー・チャンターという旧名も、僕の歴史や記憶の中にはもちろんありますが、別人になったのではなく、しなやかで丈夫な絹の糸のように、しっかりと一本の線でつながっている感覚です。僕はカンボジアで生まれ育った、望月颯太という日本人です。いつも背中でカンボジアを感じながら、これからも祖国の素晴らしい文化を伝えていくつもりですが、それと同じように、日本人として、富士市民として、この地域の魅力を高めて発信していく力になりたいと思っています。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Cover Photo/Kohei Handa
望月 颯太
ソウタ カンボジア シルク オーナー
1982年9月2日生まれ
カンボジア王国シェムリアップ市出身
富士市在住
(取材当時)
もちづき・そうた / 世界文化遺産アンコール遺跡群のある町、シェムリアップ市に生まれ、9歳より首都プノンペンで暮らす。大学卒業後、日本語教師を務めていた頃に現地で知り合った日本人女性との結婚・出産を機に、2007年に妻の出身地である富士市に移住。2012年には日本国籍を取得し、帰化申請に伴い改名。メーカーでの勤務を経て2016年1月に起業し、カンボジアシルク雑貨の専門店『ソウタカンボジアシルク』をオープン。現在に至る。
ソウタ カンボジア シルク
富士市富士町16-10
TEL:0545-88-1366
営業時間:10:00〜19:00 (水曜定休)
https://en.sota-silk.com/
https://www.facebook.com/SotaCambodiaSilk.jp/
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