Vol. 137|シンガーソングライター 笹倉 慎介
陽だまりに流れる時間
音楽には時代の気分が反映されるものだとすれば、ニューミュージックの黄金期ともいえる1970年代の邦楽は、どこかおおらかで温かみのある、今よりもずっと人の生活に近い速度で聴こえていたのかもしれない。富士宮市出身のシンガーソングライター、笹倉慎介(ささくら しんすけ)さんが紡ぎ出す音楽は、彼が生まれる前の70年代のサウンドやアーティストに影響を受けながらも、素朴で優しい歌声と落ち着きのある楽曲構成はむしろ新鮮で、今の時代にこそ染み入るような心地良さを感じさせてくれる。
活動拠点は埼玉県入間市にある、かつての米軍ハウスを自らの手で改装したレコーディングスタジオ兼カフェ『グズリレコーディングハウス』。今回の取材では現地へと足を運び、笹倉さんの価値観が凝縮された空間で美味しいコーヒーをいただきながら、じっくりと話を伺うことができた。
笹倉さんの音楽はどこか懐かしく、 のどかな陽だまりの中にいるような感覚を味わいました。その音楽性のルーツはどこにあるのでしょうか?
自分では懐かしい曲を作ろうとしているつもりはないんですが、日本のアーティストでは大瀧詠一(おおたきえいいち)さんに大きな影響を受けていて、 以前は歌い方も大瀧さんを意識していたので、僕の作品から1970年代の雰囲気を感じるのかもしれませんね。
当時のミュージシャンは今と比べると情報も録音機材も不足していたはずなのに、どうしてこんなに素晴らしい音楽を生み出せたのかと考えてみると、きっとその頃は時間の流れが穏やかで、自分の内側から湧き出てくる音楽とじっくり向き合うことができたんだろうなと。そういう時代や偉大な先人への憧れも含めて、僕の音楽の大きなテーマは『時間』といえるかもしれません。抽象的な表現ですが、時間の流れの中に身を置いたり、俯瞰したり、行ったり来たりしながら、時そのものについてひたすら歌い続けているような気がします。
小説で例えるなら、ストーリーの本筋とはあまり関係のない風景描写の部分をじっと見つめて、そこで切り取った一枚の映像を数分間の音楽に変換して歌っている、そんなイメージです。夢や恋愛をテーマにすればもっと直接的なメッセージになるのかもしれませんが、その部分だけに絞ってしまうと、そこで表現が終わってしまうように思えて。夜中に書いたラブレターを朝になって読み返してゾッとすることってあるじゃないですか。自分の作品ではあの恥ずかしさを極力避けたいなと(笑)。
もちろん、夜中のラブレターのような瞬間的な情熱が音楽になることで、人の心に伝わるということもありますし、ライブで盛り上がって、その場をエネルギッシュに共有できるというのも音楽の素晴らしさだと思います。その一方で、僕の音楽は内省からくる普遍性の共有を求めているところがあって、僕が発信したものがどこかで誰かの心に響いて、お互いの姿は見えないままでもつながっていられる、そんな音楽像が理想です。
そういう意味でも同年代に限らず、幅広い世代の人に聴いてほしいですし、僕の作品に触れたときに、ずっと大切にできる小さな宝物を見つけたような気持ちになってもらえれば、何よりも嬉しいですね。
そんな笹倉さんの感性を満たす制作環境が、この米軍ハウスのスタジオなんですね。
米軍ハウスというのは、戦後に進駐軍や在日米軍向けに建てられたアメリカ風低層住宅の俗称で、現在でも米軍基地周辺の町にいくつか残っています。僕は洋楽も好きで、バッファロー・スプリングフィールドやニール・ヤングなどは学生の頃からよく聴いていましたし、尊敬する大瀧詠一さんや細野晴臣(ほそのはるおみ)さんも、同じように米軍ハウスの跡地を自宅兼スタジオとして活動していたので、この物件を見つけた時は運命的なものを感じました。
ジョンソンタウンと呼ばれるこの地区は、僕が住み始めた11年前にはまだ辺りも薄暗く、決していい雰囲気とはいえませんでしたが、荒れ放題だった庭や内装も少しずつ手を加えて、自分のスタイルで音楽制作ができる空間に整えていきました。再開発の進んだ最近ではアメリカの郊外住宅地のような独特な雰囲気が人気で、おしゃれな飲食店や雑貨屋が建ち並んでいて、各分野のクリエイターも多く移り住んでいます。
この環境で僕が何よりも大切にしているのは、日常の空間から生まれる音楽です。カフェでお茶をするような感覚で、ミュージシャンがリラックスして楽曲を制作できる場所にしたかったんです。密閉された録音施設とは違って、開放された建物そのものがスタジオですから、収録時には小鳥のさえずりや周辺の音が入ることもありますが、それでいいんです。
埼玉県入間市のジョンソンタウン内にある笹倉さんの活動拠点
「グズリレコーディングハウス(guzuri recording house)」
かつてはスポーツ少年だったそうですが、そこから音楽の道へと進んだきっかけは?
中学で始めたテニスにのめり込んで、ダブルスの東海大会で優勝するなど、一時は本気でプロを目指していましたが、全国大会の圧倒的なレベルを目の当たりにして、ラケットよりも先に心が折れました(笑)。
音楽との出会いは高校時代でした。テニス部の仲間内でギターが流行って、たまたま実家にアコースティックギターがあったので、僕も何気なく弾き始めたのがきっかけです。ギターは独学で、最初は売れているバンドの曲などをコピーしていましたが、そのうちオリジナル曲を作るようになりました。それ以前から思いついた歌詞をノートに書き綴っていたので、その言葉に後から曲をのせるだけという感じでした。
特に音楽の教育を受けたわけではありませんが、父の職業が作家で、母も絵画で市展に選ばれることもあったせいか、幼い頃からものづくりは好きでした。何かを創作することが当たり前というか、生活の中のごく自然な行為だという感覚がありました。初めて人前で自分の曲を歌ったのは高校3年の冬で、JR富士宮駅前の広場で路上弾き語りライブをやったんです。恥ずかしかったので友達には言わず、あえて夜遅い時間を選んで一人で歌いました。当時は自分の思いを表現することへの欲求と、それがどんな風に受け止められるかということに、強い関心があったんだと思います。
そして忘れられないのが、そのライブを聴いていた通りすがりのおじさんが五千円札を置いていってくれたことです。完全に酔っ払っていたので、ご本人は千円札のつもりだったのかもしれませんけど(笑)。いずれにしても、ライブで五千円もの収入を得るのは、10代の僕にとっては大きな出来事でしたし、人前で歌ってお金をいただくという経験をできたことが、その後の大きな自信にもなりました。
時は自分が感じるままに
流れてゆくもの
富士宮駅前で歌っていた少年が、プロのシンガーソングライターになった経緯には大いに興味があります。
大学では建築を学んでいましたが、結果的に4年生の春に中退しました。音楽活動はずっと続けていて、その頃にはすでに将来は音楽で食べていこうと、何の根拠もなく心に決めていたので、建築の勉強や就職活動など、音楽以外のことに時間や労力を取られるのが嫌だったんです。若さゆえの純粋さだったのかもしれません。
ただ、大学を辞めたまでは良かったものの、さあ明日からどうやって暮らしていこうかと考えたときに、何からどう始めたらいいのか分からないんです。生活のためにとりあえず飲食店でアルバイトを始めて、そのうちさらに高収入を見込める不動産関係の会社に就職して、歩合制の営業で稼いだお金を音楽活動や楽器の購入に注ぎ込んでいました。仕事後にスーツ姿でライブハウスに直行して、そのままステージに立つということもありましたが、あまりにも忙しくて音楽に割ける時間がなくなっていく状況に、これでは本末転倒だと思うようになって会社を辞めて、そこからは音楽を生活の中心に据えることを意識するようになりました。老舗のコーヒー店で働きながら、店内で好きな音楽を聴いて、一日中読書に耽りました。収入は激減しましたが、大好きな三島由紀夫などの純文学を読み漁って、哲学や思索に浸る日々を20代半ばに3年以上続けたことは、今の創作の源泉にもなる貴重な経験でした。
その後、自分の音楽や人生をいったん見直してみようと地元の富士宮に戻ったのですが、ライブイベントで埼玉県を訪れた際に駅前の不動産屋で米軍ハウスの賃貸物件を見つけて、ここに移り住んだという流れです。このスタジオで最初に制作した3曲入りのデモCDが音楽プロデューサーである鈴木惣一朗さんの目に止まり、すぐにデビューすることになりました。今でこそYouTube(ユーチューブ)などの動画配信で誰でも自分の作品を発表できるようになりましたが、当時はまだ音楽業界内の誰かに認められて初めて世に出ることができるという時代でしたから、見出してもらえたときは本当に嬉しかったですね。
目標を実現させるための道のりは、人それぞれですね。
もちろん今もまだ道の途中ですが、むしろ先が見えないからこそ、一歩ずつ手探りでやってこれたのかなという気もします。
今はインターネットで検索すれば『音楽家になるには』とか『ミュージシャンの生計の立て方』みたいなノウハウが簡単に手に入りますが、僕の場合は先が見えてしまうと、乗り越えないといけない困難ばかりをイメージして、かえって行動することを躊躇してしまいそうで。石橋を叩いて渡らないくらいなら、最初から川にドボンと落ちてしまった方が、なんとかして向こう岸に行こうとする力が湧いてくるのかなと(笑)。
純粋な趣味としての音楽活動であれば、自分の曲を聴いてくれる人からお金をいただく必要すらないのかもしれませんが、プロとして生きてく上ではそうもいきません。現在は音楽活動に加えて文筆業やカフェ・レストランのオーナー、アメリカで買い付ける多目的キャンピングトレーラーの輸入販売なども手がけていますが、自分がやりたい音楽活動とそれを収入的に安定させる周辺の活動とのバランスは、昔も今も重要な課題です。
音楽を聴いてもらう術も音楽で食べていく術も知らなかった僕が、周りの人々に助けられながらやってきたこれまでの過程は、回り道も多かったのですが、テニスに打ち込んだ経験も、不動産の営業マンとして働きまくった経験も、すべて今につながっていると感じています。自分が知らなかったことを誰かにまるごと教わるよりも、自分で体験して失敗して発見した方が身につきますよね。同じように、百の情報を持っているよりも十の体験や感動を持っている方が、音楽家としての表現の幅は広がると思うんです。
幼い頃から何をやっても長続きしなかった僕が、唯一飽きることなく続けてきたのが、言葉と音を生み出すことでした。音楽だけはいつでも自分のパートナーであり続けてくれるという自負と安心感があって、その上で将来の選択肢を考えるときには、直感的な憧れや心地良さを大切にしていたいんです。普通の生活の中から生まれる音楽を、同じく普通の生活をしている人に届ける。これからも、そんなシンガーソングライターであり続けたいと思っています。
Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Photography/Kohei Handa
笹倉 慎介
シンガーソングライター
1981(昭和56)年3月15日生まれ
富士宮市出身・埼玉県入間市在住
(取材当時)
ささくら・しんすけ / 貴船小、富士宮第三中、日本大学付属三島高校卒。日本大学生産工学部中退。高校生の頃から作詞・楽曲制作を開始し、学業やアルバイトと並行して音楽活動を続ける。2007年より埼玉県入間市の米軍ハウス村「ジョンソンタウン」に移住し、レコーディングスタジオ兼カフェ「guzuri recording house」の前身となるプライベートスタジオの整備に着手。そこで音楽プロデューサーの鈴木惣一朗氏に才能を認められ、2008年にアルバム『Rocking Chair Girl』でデビュー。これまでに3枚のオリジナルアルバムと、アイリッシュバンド「John John Festival」との共作や、「笹倉慎介with森は生きている」名義での7インチシングル、季節をテーマにした弾き語りアルバム『TIME STREAM』シリーズを発表。今年6月にはバンドユニット「OLD DAYS TAILOR」名義でのニューアルバムを発売予定。NHK Eテレで放送中の『2355』では『顕微鏡で覗く世界』、『小さな恋の物語』などのヴォーカルを担当。2011年にPUFFIN(パフィン)株式会社を設立し、自主音楽レーベルを立ち上げたほか、現在はカフェやレストランの経営に加えて「エアストリーム」などのアメリカ製キャンピングトレーラーの輸入・販売事業なども手がける。直木賞作家の笹倉明(ささくらあきら)氏(1989年『遠い国からの殺人者』で受賞)を父に持ち、文筆家としても活動するなど、多方面で才能を発揮している。2017年より愛猫トトと暮らし始める。
笹倉 慎介 公式ウェブサイト
https://www.sasakurashinsuke.com/
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