Vol. 139|静岡県富士山世界遺産センター 学芸課 准教授 大高 康正

大高康正さん

山が映すは人の営み

ユネスコ世界文化遺産に登録された富士山を後世に伝えるための拠点施設として、昨年12月に富士宮市内にオープンした、静岡県富士山世界遺産センター。富士ひのきの格子で囲まれたモダンなデザイン、逆さ富士をイメージした展示棟が手前の水面に映り込む「二つの富士山」の姿は圧巻で、流行語を借りるならば、これほど「インスタ映え」するスポットも稀だろう。

一方、当センターの学芸課准教授として研究の最前線に立ち、展示内容の企画・構成でも中心的な役割を果たしてきた大高康正(おおたか やすまさ)さんは、「この施設の魅力は建物だけではありません」と胸を張る。

日本中世の社会史を専門とする大高さんが富士山を見るとき、その視野には脈々たる民衆の営みが含まれている。富士山の恩恵を受けながらこの地域で暮らし、先人たちの活動の延長線上にいる我々が「富士山を知る」ということの意味を、改めて考えさせられるインタビューとなった。

静岡県富士山世界遺産センターの特徴や見どころについて教えてください。

やはり最初に目を引くのは、この外観ですよね。正直なところ、学芸員の立場としては当初、この建物のデザインや構造に対して展示上の制約を感じていた部分も少なからずありました。ところが完成してみると、想像以上に多くの人が素晴らしいと評価してくださり、この建物を観るために訪れたという声も聞きます。私は建築に関しては素人ですが、建物自体にこんなにも人の心を惹きつけるパワーがあるのかと感心しました。これはもう、富士宮のピラミッドですよね(笑)。

もちろん注目してほしいのは外観だけではありません。当センターでは富士山を『永く守る』『楽しく伝える』『広く交わる』『深く究める』という4つのテーマを柱に、展示・イベント・学術調査など、さまざまな事業を行っています。私はオープン前の企画段階から長く携わってきたこだわりと責任がありますし、これだけの規模の展示をゼロから構築していく仕事には、学芸員として大きなやりがいを感じました。

静岡県富士山世界遺産センター外観

具体的な展示内容はどのようなものですか?

入館後、まずは螺旋(らせん)状のスロープを登りながら、臨場感のある映像とともに静岡県ならではの『海からの富士登山』を疑似体験してもらいます。晴れていれば最上階の展望ホールで目の前に広がる本物の富士山を眺めて、今度は下りながら富士山誕生の物語や信仰の歴史、美術・文学作品の中に登場する富士山の姿、駿河湾の海底から山頂までの多彩な生態系などを、順次紹介していきます。もちろん各展示は多言語対応になっています。その先には企画展示室と映像シアターがあり、シアターでは富士山とその周辺の高精細な映像を大画面で鑑賞できます。悪天候で富士山が見えない日でも、その雄大さや美しさを体感できます。

おかげさまで来館者数は順調に推移していて、浅間大社のそばという立地の良さもあり、正月や流鏑馬(やぶさめ)まつりのあるゴールデンウィークは、予想を大きく上回る賑わいでした。間もなくオープン以来初の登山シーズンを迎えることもあり、来館者がさらに増えることを期待しています。富士山を初めて見るという県外や海外からのお客さんも多いのですが、この施設を単なる博物館としてではなく、富士山周辺や富士宮市街を巡る観光拠点として訪れてほしいですね。

地元の皆さんにとっても、遠方からのお客さんをもてなす場所として、また1階の無料スペースには富士山関連の資料が閲覧できるライブラリーやカフェもありますので、気軽に利用してもらえればと思います。  毎日のように富士山を目にしている地元の人でも、実際に登る機会は少ないと思いますし、富士山が世界文化遺産になった理由や経緯、そして今後も富士山を守っていく必要性を学ぶための場にしていきたいです。

静岡県富士山世界遺産センター内観

大高さんご自身の富士山に対する印象や思い出は?

子どもの頃に抱いていた富士山のイメージは、『見えたら嬉しいもの』でした。生まれ育った熱海は坂の街なので、地理的に富士山は見えないんです。車や電車で静岡方面に向かうときにパッと姿を現わす富士山に、子どもながらに神々しさを感じていた記憶があります。その頃はまさか自分が富士山を世界に紹介する施設に身を置くことになるとは思いませんでしたけど(笑)。

ただ、下から眺めて美しいとは感じますが、あまり登りたいとは思わないんです。12年に一度、山頂の鳥居を新調して奉納する伝統行事の『岩淵鳥居講(いわぶちとりいこう)』、浅間大社奥宮の改修や登山道の調査などで、これまでに何度か富士山頂へ行きましたが、登山そのものや自然を楽しむことが目的ではありません。しかも調査の対象となるものは、かつての登山道沿いに残る施設跡にせよ、仏像や文書などの歴史資料が残る寺社にせよ、森林限界よりも下の地域にあることが大半なので、山頂には行かず、いつも中腹あたりをウロウロしている感じです(笑)。

あくまでも歴史学者としての視点なんですね。大高さんが歴史に興味を持ったきっかけは?

歴史が好きな人はたくさんいると思いますが、もとは私もその一人です。小学生の頃、母が学習漫画の『日本の歴史』シリーズを買ってくれて、それを読むうちに歴史が好きになりました。京都や奈良が好きな両親と家族旅行で関西方面を何度も訪れたことも影響していると思います。

大学と大学院の修士課程までは今川義元などを扱った戦国大名論に取り組んでいましたが、博士課程では中世における民衆の信仰や組織について研究して、以後それがライフワークになっています。戦国時代の文献は現存する数も少なく、研究者の中でも人気のあるテーマですから、博士論文まで書くのはなかなか難しいという理由もありますが、個人的にはその時代の支配者が何をしたか、社会の表面がどうだったかということよりも、その中で生きた民衆の実態を探りたいんです。偉そうな人にはあまり興味がないんですね(笑)。

特に中世は『自力救済』といって、自分たちの安全や権利は自分たちの実力で守るしかないという、集団自治的な仕組みで成り立つ厳しい社会でした。当時の資料を見ても、戦国大名が書いたものは上からの文書で、政治史の大きな流れは掴めても、実際にそこにいた民衆の姿はあまり見えてこないというのが、この時代の特徴でもあります。

浅間大社奥宮の調査(2014年)で富士山頂を訪れた際の大高さん

富士山に魅かれるのは
そこに人がいるから

浅間大社奥宮の調査(2014年)で富士山頂を訪れた際の大高さん

富士地域や富士山に関する研究に本格的に携わるようになった経緯は?

2007年に当時の富士市立博物館に学芸員として採用されたことが直接のきっかけです。その頃は関西に在住して京都や奈良を満喫していましたが、地元の静岡県で学芸員を募集していることを知り、応募しました。

当時富士市では『六所家資料(ろくしょけしりょう)』と呼ばれる約5万点もの膨大な資料が民間から寄贈されたタイミングで、これらの整理・調査を行う人員を必要としていました。学芸員という職種は有資格者に対して採用先がものすごく少なくて、水族館から埋蔵文化財まで対象となる分野も幅広いので、自分の専門に合致した仕事ができるとは限らないのですが、私の場合は幸運なことに、専門性を活かせる仕事に恵まれました。

私が在籍していた約4年間の調査では、資料全体の要点をなんとか整理できた程度だったのですが、六所家資料総合調査については今年の3月にようやく目録が出揃い、報告書が整う形になりました。今後富士市がこの資料をどのように活用していくのか、私も注目しています。

また、現在私が関わっている事業としては、静岡県が各市町と連携して進めている富士山周辺の巡礼路調査があります。今年度は表口登山道をはじめ、東海道から大宮、つまり富士宮に出るルートや吉原から村山に向かうルートなども含めた総合調査を行っています。

当然ながら現在の地図と昔の地図では縮尺が合わない部分もありますし、人が行き交う道はずっと同じ状態ではありません。自然災害が発生すれば新しい道を作り直したと考えるのが常識ですので、『はい、ここが巡礼路です』と簡単に言えるものではないんです。私も実際の道を歩きながら現存する石造物を調べたり、GPSで位置情報を確認したりしていますが、歴史学者のフィールドワークはこういう地道な作業が大半で、派手さはないんですよ(笑)。

この地域では富士山とかぐや姫の物語もよく知られていますね。

『富士山縁起』と呼ばれる中世の資料には、かぐや姫は月ではなく富士山頂に帰って、富士山の神様になったという話が出てきます。ここで面白いのは、かぐや姫は見送ってもらった養父母のおじいさんやおばあさんと中宮(ちゅうぐう)という場所で別れる際に、『私に会いたければ富士山頂に来ていいですよ』と言っていて、これによって一般の人が富士山に登ることを御祭神が許可したと解釈できるわけです。そして同時に、『おばあさんと会うのはこの中宮で』と付け加えられているんです。つまり、当時女人禁制だった山頂には行けないおばあさんは中宮までなら来ていいですよと、きっちり念押ししているわけです。

当時の社会にも富士登山に関するさまざまな利権や経済活動があったはずで、このエピソードは『富士山に多くの参拝客を集めたい』と考えていた当時の人々にとって都合の良い内容になっているんですね。美しいファンタジーとしてのかぐや姫が好きな方に申し訳ないのですが、創作の背景には社会的な要請があるという良い例だといえます。

大高さんの専門分野における今後の課題は?

中世から近世にかけて各地に存在した富士山信仰については、今後の大きな研究課題です。

江戸時代にはおもに山梨側の登山道を使った、角行(かくぎょう)を開祖としている角行系の富士講(ふじこう)が盛んになります。この系統の富士講は関東を中心に流行した民衆信仰・新興宗教の一種で、集団で富士登拝を行ったり、石や土を盛って富士山の神を祀る富士塚を築いたりしていました。

一方で、それ以前の16世紀末にはすでに静岡側の大宮・村山口登山道に関西方面からの参詣者が多く訪れていたことが分かっています。江戸の富士講との相違点も出てきているので、これらの富士山信仰の実態を総合的に捉えて、その関連性も含めて明らかにしたいです。

これまでに三重・愛知・滋賀などに残る資料を調査してきましたが、肉眼ではなかなか富士山を見ることができない地域の漁村にある小さなお堂の中に、富士宮の浅間大社のお札が残っていたりするんです。近隣には熊野や伊勢など有名な霊場もあるにもかかわらずです。庶民の移動手段は徒歩、もしくは馬やカゴに乗るしかなかった当時、富士山への道のりは現代とは比較にならないほど遠くて過酷なものだったはずです。正確な地図もなければ案内人がいないこともあり、場合によっては命の危険もある中で、なぜ人々は富士山を目指したのか、何を求めたのか、またそれを取り巻く社会はどのような状況だったのか、とても興味深いところです。

これまでの研究で見えてきたのは、純粋な信仰心や富士山への憧れといったものだけではなく、組織的な富士山巡礼を利用して生活の糧を得ている人や、たくましくしたたかに生きる民衆の姿だったりもします。ただ、私はそういう部分にこそ、先人たちが築いてきた知恵や工夫が見て取れると思います。社会ってうまくできているな、人間って面白いなと、楽しい気持ちになるんです。

Title & Creative Direction/Daisuke Hoshino
Text & Cover Photo/Kohei Handa

大高康正さんプロフィール

大高 康正
静岡県富士山世界遺産センター 学芸課 准教授

1973(昭和48)年4月28日生まれ
熱海市出身
(取材当時)

おおたか ・やすまさ / 日本大学三島高校、日本大学文理学部史学科を卒業後、國學院大学大学院で修士号(文学)を取得。非常勤職員として京都府立総合資料館(現・京都学・歴彩館)勤務の後、帝塚山大学大学院に進み、博士号(学術)を取得。2007年より4年間、富士市立博物館(現・富士山かぐや姫ミュージアム)に学芸員として勤務し、『六所家資料』の整理・調査などに携わる。(公財)元興寺文化財研究所人文科学研究室研究員などを経て、2014年7月より静岡県富士山世界遺産センター開館準備に携わり、現在に至る。専門は日本中世史・社会史。主著に『参詣曼荼羅の研究』、『富士山信仰と修験道』(ともに岩田書院)など。

静岡県富士山世界遺産センター

所在地:富士宮市宮町5-12
TEL:0544-21-3776
開館時間:9:00~17:00(7・8月は~18:00) ※最終入館は閉館の30分前
休館日:毎月第3火曜(祝日の場合は開館・翌日休館)・その他施設点検日
観覧料:大人 300円(20名以上の団体200円)
※最新情報は静岡県富士山世界遺産センター公式ホームページでご確認ください。
https://mtfuji-whc.jp/

静岡県富士山世界遺産センター内部スペース

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